見出し画像

忘れられた自由・平等のパイオニア(後編)

前回までの記事では、フンボルトの生い立ちからゲーテとの出会い

そして、南米大陸に渡り、多くの発見と共に奴隷制や環境保護に対する、当時としては斬新な彼の主張が形成されたこと

などについて書きました。

さて今回は、南米大陸の調査を終え、彼が北米大陸に渡った後のお話になります。

1、新たな大陸へ

南米大陸の調査を終えたフンボルトは、カリブ海のキューバを経てアメリカ合衆国の東海岸に降り立ちます。

画像1

その目的は、アメリカ合衆国大統領、トーマス・ジェファーソン

画像2

に会うためでした。
啓蒙思想に強い影響を受けて育ったフンボルトは、「自由」の精神で独立を果たしたアメリカ合衆国を理想郷と崇め、この目で見たいと願ったのです。

ジェファーソンが大統領になった頃、建国間もないアメリカ合衆国の首都はまだ整備の行き届かない小さな町でした。
しかし、独立戦争を終えたアメリカ国内は、早くも国の未来に関わる重要な対立を抱えてもいました。
それは、

・商業や交易を重視し、巨大な都市と強力な中央政府を作るべきと主張する「連邦派」
 →ワシントンなど
・自給的農業を重視し、個人の自由と分権を尊重する、小さい政府を作るべきと主張する「反連邦派(リパブリカン)」
 →ジェファーソンなど

の対立でした。

リパブリカンの代表であるジェファーソンは、大統領になってもなお、自らの周囲にある権威や虚飾、階級を一掃し、農民然として過ごしていました。
また、リパブリカンの勢力拡大が、独立農民たちによる西部開拓への原動力になっていきます。

また、ジェファーソンは好奇心の塊であり、植物学や気象学など科学に対する関心はずば抜けていました。フィールドワークも大好き…あれ?どこかで聞いたような。

2、フンボルトの描く理想郷

似た者同士のフンボルトとジェファーソン、気が合わないわけがありません。
既に南米大陸の冒険でヒーローになっていたフンボルトは、公式に大歓迎を受けます。
そこですっかり意気投合した2人は、フンボルトの1週間の滞在の間、科学と自然、そしてアメリカ合衆国の未来について語り合います。

フンボルトは南米で見たスペインによる植民地支配がもたらした結果について情報を惜しみなく提示しました。
つまり、人々が商品作物(インディゴやサトウキビなど)のプランテーションに依存した生活を送り、食糧生産が不足し飢えに苦しんでいる現状、そして略奪・搾取され、破壊されていく自然についてです。
そして、そのような国づくりには未来がないと語り、「生命の網を重視した自給的な農業共和国の樹立こそ、アメリカを永遠に豊かにする」と熱弁しました。

この意見はジェファーソンの理想そのものでした。
彼も、「土地を愛し、自給的農業にいそしむ、独立した小農民こそがアメリカに忠誠を誓い、繁栄に導く存在である」と主張していましたが、フンボルトの主張を聞き、それが正しいという確信を深めました。

ちなみにフンボルト、当時のスペイン植民地についての情報も惜しみなく提示してしまいます(外交・軍事上の機密情報もあったらしい)。
スペインの支援を受けて調査旅行をした彼の立場を考えると非常によろしくないのですが、それだけフンボルトがジェファーソン、そしてアメリカ合衆国に惚れ込んでいた、ということでしょう。

3、2人の英雄のすれ違い

しかし、それほどまでに意気投合した2人の間で、唯一かみ合わない意見がありました。
それは「奴隷制」について。

フンボルトは、
「奴隷制は、文明人を称する野蛮な人々の欲望が生み出した、自然に反する邪悪な制度である」
「あらゆる人間は生命の網の中で生きる一つの系統に属し、平等で自由な存在である」

と主張しました。
また、南米の先住民(インディオ)に対する差別的扱いを目にし、憤っていたフンボルトにとって、アメリカ国内の先住民に対する差別的扱いは野蛮そのものでした。

一方ジェファーソンは、奴隷制反対の立場を取りながら、晩年に至るまで自らは多くの奴隷を所有していました。
また、彼自身は「黒人は心身とも白人に劣る」と発言したこともあり、フンボルトの思想とは異なる人間観を持っていました。

自然は自由そのものであり、全てが生命の網で平等に結びつき、それぞれの役割を持ち集い、世界を形成している。そこに優劣はなく、人間も自然のごく一部に過ぎないと考えるフンボルトにとって、ジェファーソンの思想は受け入れられるものではありませんでした。
彼はジェファーソンを名指しこそしませんでしたが、アメリカ滞在中も奴隷制を批判することをやめなかったのです。

4、革命家との対話

アメリカを後にしたフンボルトは、フランスに向かいました。
フランス革命と革命戦争を乗り越えたパリこそ、自分の居場所だと考えたのでしょう。
知識と芸術が集まり、リベラルな空気を持つパリは、彼にとって居心地の良い場所でしたが、政治的にはナポレオンが帝位につくなどきな臭い空気も漂っていました。

ヨーロッパに戻った彼は、各地を調査して回ります。
そしてローマでは、後にベネズエラ独立を指導した革命家、シモン・ボリバル

画像3

とも対話しました。
フンボルトは南米が自由と独立を勝ち取ることには賛成でしたが、シモン・ボリバルは彼の目にあまりにも若く、パーティー好きの浮ついた男に映りました(彼は南米屈指の名家の御曹司でした)。
シモン・ボリバルはフンボルトを尊敬していましたが、フンボルトは彼を未熟と考えていたようです。
しかしその後、シモン・ボリバルはベネズエラ独立闘争に身を投じ、革命を成功させることになります。

5、フンボルト、本を書く

また、ヨーロッパに戻ったフンボルトは自らの考えを書籍にまとめ始めました。

その代表作は『コスモス』

画像4

第一巻の完成までに10年を要し、1845年から1862年にかけ5巻が刊行された超大作です。
フンボルト自身の手によって書き上げられたのは4巻までで、第5巻は彼の死後、助手のエドゥアルト・ブッシュマンによって書き上げられました。

第1巻で彼は、宇宙と太陽系、地球の生命現象について、神という言葉を使わず、全ては網のように密接につながり、生きた全体として果てしなく活動し続けているのだと主張しました。
そして、人間が自然の奥深さを解明したと錯覚することは驕りである。人間は自然の一部に過ぎず、知識は想像力を奪うことはない、とも述べました。

この考えには、旧友ゲーテの影響が強く表れています。

そして第2巻ではよりゲーテの思想の影響は直接的に表れました。
外的世界が、内的世界(感情や感覚)にどのような影響を与えるかについて書いたのです。
科学は想像力を排除するものではなく、むしろ自然や化学を理解するには感覚を通して世界を俯瞰し、解釈し、理解し、定義しなくてはならないとも述べています。

コスモスは、出版されると世界中に衝撃を与え、人々はフンボルトの思想に惹きこまれていきました。
そして、フンボルトの思想に影響を受けた数多くの人々の中で、彼と同じように世界を調査旅行し、偉大な業績を残した人物もいたのです。

今回は、長くなってしまいましたのでここで一度終わりにしたいと思います。
次回出てくる人物は、皆さんも名前をご存じのあの人。
熱帯地域を調査旅行し、キリスト教的な創世記を真っ向から否定したあの人物です。
フンボルトから見ると40歳も年下の、若き科学者にして冒険家でした。

では、続きは次回の記事で。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!

サポートは、資料収集や取材など、より良い記事を書くために大切に使わせていただきます。 また、スキやフォロー、コメントという形の応援もとても嬉しく、励みになります。ありがとうございます。