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白河の清きに魚も棲みかねて

白河の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき

はるか昔、学生時分にこの歌を学んだ。(すっかり忘れていたのでこれを書くために検索しなおしたわ)

白川侯松平定信がやった寛政の改革が厳しすぎるから、汚職とか汚いところもいっぱいあったけど文化的に華やかだった田沼時代が恋しいわ〜という歌だ。(たしか)

ここ最近、この歌をよく思い出す。

この世の中、どんどん隠し事ができなくなってきている。隠してもSNSで暴かれてしまい、暴かれるとより一層炎上したりする。
見栄をはってもバレるし、嘘もどこかでバレる。身近なところでも遠いところでも、これまでは隠せていたことが隠せなくなってきている。

隠すようなことをしなければまったく問題ない話だし、見栄をはらず、嘘をつかなければ何の問題もない。
それはまっとうでとても良い世界のようにも思える。

人はなぜ隠し事をし、嘘をつくのか。
色々あるだろうけど、都合の悪いことがあるから、自分の弱いところをみたくない・みせたくない、というのが大きな理由としてあるんじゃないかと思う。

世の中はどんどん浄化されていて、清らかではないものはどんどん糾弾されるようになった。
だけども、その清らかで正しい世界に住める魚ははたしてこの世にどんくらいいるんだろうか?

自分から遠い世界の話、たとえば政治家や自分と関係ない芸能人の嘘や隠し事に正義や透明さを求めることは簡単だろう。
でも、遠く離れた見ず知らずの他人を糾弾しているその人が、自分ちの嫁さんに内緒で借金して浮気してたり、自分の知識に自信がないのを隠したくて職場の部下にムダに偉そうにしてた見栄をはったりしてることもよくある話。

みんなだいたいそんなもんだ。
人は誰しも清濁あわせもつもの。
「濁」はすでに人にあるもので排除したり忌避したりするものではない。

だが、最近は「濁」がより可視化され必要以上に目立つようになってしまった。濁った水に馴染んでいる魚にとってはつらい変化だ。

どの水を快適と感じるかはその魚がうまれた環境によって、ある程度、決まるようにも思う。(もちろんそれがすべてでもない)
最初から多くを持ち清らかな家で育った魚は、清らかな水でも違和感なく過ごせるだろう。だが、基本的にこれまでの社会は濁りも多分に含まれる世界だったから、この濁った世界で育った多くの魚にとっては、都合の悪いことを隠せず自分のエゴが今まで以上に可視化され糾弾されてしまう清らかな水は毒でしかないのかもしれないな、とも思う。

いま、キレイな水の世界で心地よく住むことができている魚は、生まれたときからそこそこキレイな水に住んでた魚だけなんじゃないかと思う。
もともとキレイな水に住んでた魚にとっては「こっちの水がいいに決まってるじゃん」「みんながこっちに来た方がいいに決まってるじゃん」なんだけど、濁った水に住んでた魚たちが、水質が変わってきてることに気付かず右往左往し困惑しているのが今なんじゃなかろうか。

どっちに住んでた人もあまり苦しまずに楽しくいきられるような池は作れないもんなんだろうか。

人は清らかで尊くもあるが、また同時に愚かで弱く醜くみっともなくもある。
清らかだけの社会は正しいのかもしれないけど、その清らかな社会が、人のもつ本性の半分を否定して出来上がる世界なんだとしたら、それってどうなんだろうな、と思ったりする。このキレイな世界の中で、誰の心にもある愚かで弱く醜くみっともない部分とどう折り合いをつけていけばいいんだろう。

白河の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき

人の業と本質がつまった歌だな、と思う。
昔の人もうまいこと言ったもんだよね。

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