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夜明け

冬の深夜四時、大学周りの学生街は何かを輸送するトラックの走行音とじりじりと鳴る街灯の音、それと虚空からのしんとした緊張感に包まれていて、その中をすき家に向かってのらりくらりと潜り抜けていくことは大学三年生の特権だった。
その特権を行使したいが為に、僕とサークルの友人は全身の強張りに耐えながらこたつに入ってカードゲームをし続けていた。友人の家とすき家の間の距離は徒歩十分程で、その距離を寒さに耐え忍びながら歩くことへの抵抗感が二人の空間を支配していた。
「いやブルブルパンチだるい。なんでそのカード世に産み落とされてんだよ」
友人がTwitterに文句をツイートするのと同じテンションでカードの効果に文句をぶつけてきた。彼の言葉を無視してカードをプレイし続ける。
「ゲロゲにハチマキ、後ろにニコタマ、フラダリで」
「いやだるいだるいだるいだるい!犯罪!」
友人はほとんど後ろに倒れこんだかと思うと、腹筋を使ってバネのように体勢をもとに戻した。首をほぐすように頭をグルグルと回した後、盤面に目を通して手札を確認した。
「いや負け負け、降参だわこんなん。初動悪すぎ」
「はい、対戦ありがとうございまーした」
「うぇい」
友人は挨拶なのか何なのかよく分からない鳴き声を吐き出すと、その勢いのままこたつから体を引き抜きぐぅっと伸びをした。どちらから言い出すわけでもなく醸されていた空間が破かれた。続けて友人が喋り出す。
「いや腹鳴ったわ。諦めて食い行こうぜ」
「マァジか遂にその時が」
「来てしまわれたわ」
「来てしまわれたか…」
こたつと一体になって血の巡りの悪くなった体を起こそうとして、背中とふくらはぎが軋んだ。なんとか気力でそれらを動員して起き上がり、広げていた自分のカードをケースに仕舞ってリュックの中に放り込んだ。友人から借りていた充電コードからスマホを引き抜き、ズボンのポケットにしまい込む。上着に腕を通してジッパーを閉じた。
「水もらうよ」
「うい」
適当なコップを彼のキッチンから探し出し、水道水を少しだけ入れて飲み干す。喉の中を冷たい水が通り抜けて、体の中に籠っていた熱が少し発散したような気がした。リュックを掴み取りながら友人に声をかける。
「おっけー、出る準備できたよ」
リュックのジッパーを閉めてそのまましょい込む。友人が財布を尻ポケットに入れたのを横目に見て玄関へと向かった。使い古されたスニーカーを履き、少し重たい扉に向かって体重を乗せて開く。すると想像していた通りに外気が自分の手と顔を突き刺した。外気に適応しようとして身体が内側に向かって縮こまる。友人の家に面している道路を大型トラックが走り抜け、トラックがあった場所に向かって吹き込む風が自分に襲い掛かる。思わず肩を上げ猫背気味になりながら声を上げた。
「さっーーむ!」
「いや馬鹿寒いやんなんやこれ」
馬鹿寒いってなんだ、と思いつつ口には出さなかった。後ろから出てきた友人に扉を任せると、友人は扉を押し込むように閉じて、ぴょんぴょんと自分の体を温めるように飛び跳ねた後に扉の鍵を閉めた。それを確認して歩き出すと、友人が小走りで自分の横に追いついてきて共に歩き出した。空を見上げると暗黒の中に星が輝いていて、東の方が何となく薄い墨色になってきていた。少し歩いたところで友人が喋りだす。
「今日こそ紅ショウガ丼食ってよ」
「出た出た出たその謎メニュー」
友人は以前から、普通の牛丼に備え付けの紅ショウガを大量に盛る食べ方を勧めてきていた。確かに紅ショウガと牛丼の相性は良いと思うが、それよりも自分の体は寒さに襲われていて、ネットで噂のチーズ牛丼を所望している。
「今日はチー牛っすわ」
「でた最近食いづらいやつ」
「実際美味いししゃーない」
店内のあたたかな空気を求め、ただひたすらに閑静で冷たい夜を潜り抜ける。明かりがついているのはほとんどコンビニのみで、まるで生きているのが僕らだけかの様に感じた。誰も通らない交差点で孤独に点滅し続ける信号機は僕らの足を止める為だけに存在していた。律儀に青信号を待つ僕らも、信号に役割を与える為に存在していた。そうして吸い込まれるようにすき家にたどり着き二重の扉を開くと、外気を否定する為に用意された暖房が僕らの緊張感を解きほぐす。僕ら以外に客は誰もいなかった。筋肉の弛緩を浴びるようにカウンター席にたどり着くと、店員さんが、というか、すき家でアルバイトをしている同じサークルの先輩がやってきた。両手にお茶の入ったコップを持っている。
「お前らちょっかいでもかけに来たんか?暇か?あ?」
先輩はコップを僕らの目の前に置いた。あまりにも先輩の店員としての態度が悪すぎて、ふふ、と笑ってしまう。友人が話し出す。
「いやたまたまっすよ」
「で、ご注文はいかがなさいますか?」
「牛丼大盛で」
「あー、チーズ牛丼大盛でお願いします」
あいよ、と言うと先輩は店の奥に吸い込まれていった。しょっていたリュックを足元に立てかけて上着を脱ぐ。友人も上着を脱ぐと、ふう、とため息をついてから肩の力を抜いて話し出した。
「この時期の寒さほんとダメだわ、いいことなんもない」
「勉強には向いてるべ。籠るし」
「は?もしかして冬休みもなんかしてんの?」
「そりゃね」
「それぜってー大学生として間違ってる。模範的すぎて大学生としてどうかと思うわ」
「模範的ならいいだろ」
「いーや、大学生としてダメダメ。人生楽しめよな」
「勉強が楽しいからしゃーないじゃん」
「それはバグってる。はよアプデされろ」
「過言」
この時間まで起きていると物事を認識するための精神的な解像度が下がっているのを感じる。放つ言葉の一つ一つが曖昧で、整合性がどこまで取れているかよりも全体の流れが重要に思える、そんな会話。
「すーがくとやらの何がそんなに面白いのよ」
「え、喋るぞ?いいのか?」
「だめ」
「そっちが言い出したじゃん」
「それもバグ」
「なんでもバグって言えば話が通ると思ってるだろ」
「バグバグ、バアグバグ」
「やかましいわ」
何か厨房で調理をしているらしい音と、時計の針の音、暖房のごうごうという音に包まれて、牛丼が来るまでの時間を過ごす。自分はこの時間こそが最も大学生らしい時間だと考えているけれど、友人はきっとそのことに気が付いていないし、今後も気が付かないだろう。そうこうしているうちに、先輩が牛丼をお盆に載せて運んできた。
「ハイハイハイハイお客様こちら牛丼大盛になります」
「ハイ多くない?」
友人のツッコミを完全に無視して先輩が厨房に戻り、自分の分のチーズ牛丼を運んできた。
「お待たせいたしました、チーズ牛丼でございます」
「ハイ少なくね?」
友人が先輩に抗議の声を漏らす。またもや先輩は友人のセリフを無視して、注文が出揃ったことを確認するとレシート2枚をまとめて渡してきた。そしてそそくさと厨房の中へと消えていった。自分は箱を開けて牛丼用のスプーンを取り出し、友人は箸を取り出して紅ショウガを牛丼の上に大量に乗せた。すると友人から質問が飛んできた。
「なんでスプーン?」
「牛丼の汁があるのにスプーン使わないの愚かやろ」
「マ?」
「そのスラングリアルで使うやついたんだ…」
「いや箸でよくね?」
「いいっちゃいいけど、箸を使うメリットが無い」
「粋だからでしょ」
「じゃ、却下」
「自由人ジャン」
どんぶりの底に対して垂直方向にスプーンを差し込んで、米とチーズが同じ割合で消費できるように食べていく。深夜五時近くに食べる牛丼がエネルギーの足りていない軋んだ体に染み渡る。途中からチーズ牛丼にタバスコをかけて食べ始めると、友人からまた抗議の声が上がった。
「タバスコマジ?」
「え、なにが」
「タバスコかけるのは違うくね?」
「それお前が甘党なだけでは」
「それはそう」
じゃあなんの指摘だったんだと思いつつ、熱くなった体に冷たいお茶を注ぎ込む。チーズの油っこさを流してくれるお茶が置いてあるのは理に適っているな、今度は味噌汁も頼んでみるかな、などと考えている内に牛丼を食べきった。大盛はやりすぎだったかもしれない。
「ごちそうさまでした」
遅れて友人も牛丼を食べ終わると、腹をぽんぽんと叩いて満足そうにした。そんな漫画的な動作を実際にするやついるんだな、と思いながら、リュックの中から財布を取り出す。友人が厨房の方に向かって声をかけた。
「お会計よろしくー」
なにがよろしくだ、と顔面にはっきりと書いてある先輩がやってきた。レシートの金額を確認すると、とても面倒くさそうにレジに入力し始めた。
「えーーそっちのやべーお客様が480円です」
「店員さんそんな態度で大丈夫っすか?」
「知らんがな」
先輩は友人から500円玉を受け取ると、それを大事そうにレジに入れてこれでもかというぐらい雑に10円玉を2枚返した。それとは対称的に、自分の時はそこまでやらなくてもというほど丁重に630円を受け取り、何かを献上するかのようにレシートを渡してきた。友人はその温度差に文句を言いながら上着を羽織って外に出た。財布をしまい込んでリュックをしょいこんで自分も外に出る。外気が冷たいことは変わらなかったが、東の空がぼうっと白く光りだして、輝いていた星が見えなくなってきていた。いくらか浮かんでいる雲の輪郭が浮き出ていた。とても高い、立体感の感じられないのっぺりとした雲だ。自分はこのまま帰路に着く為友人に軽い挨拶を投げる。
「そいじゃここで」
「うい、じゃあね」
「じゃぁのーん」
ここから駅まではずうっと下りになっていて、駅のある東方向にただ重たい体を重力に任せて進めばよい。このすき家は幾分か標高があるのだ。そうして景色の開けた坂を下っていると、突然眼前に朝日が差し込み体の中へ矢のように熱が飛び込んできた。少し驚いて足を止めると、目の前に広がる街並みにも日が射していった。自分の中に飛び込んできた熱が街並みにまで広がっていくように思えて、木々に住み着く鳥たちが目を覚ますであろうことを確信する。空の色が墨色から貝殻の裏側のように移り行き、空気の息づくさまに呼吸が一瞬止まった。ほう、と胸を下ろすと、熱に浮かされ流されてきた風が坂道を撫で上げるように吹きすさぶ。その冷たさに意識を戻され体が緊張を取り戻すと、再び坂を下り始めた。その朝日の光景はまるで夢のように、いつもと同じ姿に戻っていた。自分に溜まっている疲労感が、急速に休憩を要求してくる。我が家の布団のあたたかさに思いを馳せて、そそくさと坂を下っていくのだった。

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