祖父の懐中時計
祖父は、いつもポケットに金色の懐中時計をしのばせていた。
ピカピカと光るその時計はとても美しいもので、直径は6センチくらいだったような気がする。
いつも大事そうに文字盤に触れていた祖父。その指先を見ていると、まだ幼かった私でも、簡単に触ったりしてはいけないものだと思っていた。
その時計には同色の金色の鎖がついていて、胸ポケットからも、腰ポケットからも、落ちないようになっていた。
私は幼児期から小学校入学まで、祖父母と両親、弟、叔父、私の7人家族で、帯広の中心街に住んでいた。
祖父は幼い頃伝染病に罹り、失明してしまった。だが、そんな障害に負けず、鍼灸師の免許を取得して、治療院を開業していた。
家の前には大きな通りがあり、飲食店や美容院、食料品店などが並んでいた。
当時はどの店も、道路に面したウインドウや店先に、大きな時計を掲げていた。
その時計は、通行人や帰宅途中の学生にとって、時間を知るための大切な存在だった。
その頃、祖父とよく散歩をした。幼稚園から帰宅して、夕方、祖父の仕事が終わったあとだったが、二歳下の弟は一緒ではなかったように記憶している。私は祖父との散歩が大好きだった。
ひいきのプロ野球チームが勝った翌日などは、その勝因を繰り返し繰り返し聞かされた。
目で見る楽しみを味わえない祖父は、音楽が大好きであったが、五歳にもならない私に、真剣にショパンやモーツァルトの話をした。
この頃だったと思うが、祖父に
「目が見えるということを当たり前だと思っちゃ駄目だ。本をたくさん読みなさい」
と言われた。
祖父は点字で文書を読み書きし、点字に直されていない文章は自分で点訳していた。
小さな点の並んだ紙面を指で辿り、文字を読んでいた祖父の姿は、今でも鮮やかに蘇る。
そんな手間をかけずに文章を読めるということは、祖父の言う通り、幸せなことだった。
夕焼けの街並みの中、祖父が「帰ろう、ごはんができてるぞ」と言う。遊び足りないような気もしたが、いつもその言葉に促され、家に帰った。
治療院の大きな玄関から長い廊下を抜け、居間のドアを開けると食事ができていた。
今思えば、祖父の帰宅時間は決まっていたのだろう。けれど全盲の祖父が商店街の時計を見ることはできない。近所の人に時間を尋ねたこともなかった。
それなのに、正確に時間を知ることができる祖父を、私は不思議に思っていた。
祖父が時間を確かめることができたのは、あの金色の懐中時計のおかげだった。私がそれを知ったのは、祖父を亡くした時だった。
私が小学五年生の冬、体調を崩した祖父は市内の総合病院に入院したのだが、発病から一か月で帰らぬ人となった。
その急激な死は、私は小学生でありながら納得がいかなかった。
死因が特定できないとのことで、解剖された祖父。その結果、祖父の命を奪ったのは劇症肝炎で、感染病であることを知った。
医師の説明では、肝炎の患者さんに針治療を施した際、誤って自分の体に消毒前の針を刺し、そこから病原体が体内に入ったのだろうということだった。
祖父の死を受け入れられない私の目前で、着々と葬儀の準備が進んでいった。
両親に促され、弟と二人で、北枕に休む祖父の体をアルコールで拭いた。
そっと祖父の手に触れると、散歩の時に感じたぬくもりはなかった。
いつも暖かかった祖父の掌の、哀しい冷たさに、私は初めて祖父の死を実感した。
遺体の清拭が終わり、棺に納める品を選んでいた時、母が
「この時計がないと、父さん、あちらで時間がわからなくなるね」
と、あの懐中時計を祖父の枕もとに置いた。
「これは盲人用の時計なんだ。ガラスのカバーがなくて、指で針の位置を確かめられるようになっているんだよ」
叔父が私に教えてくれた。
「指で触ったら、針が動いちゃうんじゃないの?」
「盲人用だから動かない仕組みなんだ」
私は、祖父が愛しそうに時計の文字盤をなでる仕草を思い出した。
自分の目で私の顔を識別できない祖父は、両手で私の頬に触れ、
「母さんに似てきたな」
と言って笑った。
祖父が旅立って二十年ほどが過ぎたある日、やはり全盲で、指圧師として働いている祖父の古い友人に会った。
彼は私の顔に触れ、「お母さんにそっくりだね」と言った。
胸ポケットには、祖父と同じ金色の懐中時計が光っていた。
※地元の市民文藝に初入選した随筆作品です。もう20年経つのかぁ…とこうして書き起こすと感無量…。
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