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短編 「秋の夜長の贈りもの」

澄んだ空気が肌を撫でる10月の夕暮れ時、65歳の佐藤美樹は自宅の縁側に腰を下ろした。庭の柿の木には、まだ青々とした実がたわわに実っている。美樹は深い息を吐き出し、目を閉じた。

40年間勤めた小学校を今年の春に退職してから、毎日が日曜日のような気分だった。しかし、そんな生活にも少しずつ慣れてきた頃、ふと寂しさが胸に忍び寄ってきた。夫の健一は3年前に他界し、一人息子の健太は東京で忙しく働いている。たまに電話で話すものの、顔を合わせるのは年に数回だけだ。

夕暮れが深まり、虫の音が聞こえ始めた。美樹は立ち上がり、家の中に入った。居間のテーブルの上には、退職時に教え子たちからもらったアルバムが置いてある。パラパラとページをめくると、懐かしい顔や思い出が次々と蘇ってくる。

その時、玄関のチャイムが鳴った。

「はーい、今行きます」

美樹は少し驚きながら玄関に向かった。こんな時間に誰だろう?ドアを開けると、そこには見覚えのある顔があった。

「先生、こんばんは。高橋です。覚えていますか?」

目の前に立っていたのは、20年以上前に教えた生徒の一人、高橋陽子だった。今では30代半ばになっているはずだ。

「まあ、陽子ちゃん!もちろん覚えているわ。どうしたの?こんな時間に」

「実は、先生にお願いしたいことがあって...」陽子は少し躊躇しながら言った。

美樹は陽子を家に招き入れ、お茶を出した。陽子は緊張した様子で話し始めた。

「先生、私、来月結婚するんです。でも...」陽子は言葉を詰まらせた。

「おめでとう!でも、何かあったの?」美樹は優しく尋ねた。

陽子は深呼吸をして続けた。「実は、両親が事故で他界してから、結婚式で誰に花束を渡せばいいのか悩んでいて...それで、先生にお願いしたいと思って」

美樹は驚きと感動で言葉を失った。陽子の両親の事故のことは聞いていた。地域の小さな町では、そういった出来事はすぐに広まる。しかし、まさか自分に花束を渡してほしいとは。

「私でいいの?」美樹は思わず聞き返した。

陽子は頷いた。「先生は、私が困っているときにいつも助けてくれました。両親のように接してくれて...だから、先生に渡したいんです」

美樹の目に涙が浮かんだ。「ありがとう、陽子ちゃん。喜んでお受けするわ」

その言葉を聞いて、陽子の表情が明るくなった。「本当ですか?ありがとうございます!」

二人は夜遅くまで話し込んだ。陽子の近況や、結婚相手のこと、そして昔の思い出話に花が咲いた。

帰り際、陽子は美樹に抱きついた。「先生、また来てもいいですか?」

「もちろんよ。いつでも来てね」美樹は優しく答えた。

陽子が帰った後、美樹は再び縁側に座った。夜空には星が瞬いている。心の中に温かいものが広がっていくのを感じた。

その夜を境に、美樹の生活は少しずつ変わっていった。陽子の結婚式では、まるで実の娘のように誇らしく花束を受け取った。そして、その後も陽子は頻繁に訪れるようになった。時には夫を連れて、時には友人と一緒に。

陽子の来訪をきっかけに、他の教え子たちも美樹を訪ねてくるようになった。休日には、庭で柿をもぎながら昔話に花を咲かせることも増えた。

ある日、息子の健太から電話があった。

「母さん、最近元気そうだね。なんだか声に張りがあるよ」

美樹は柔らかな笑みを浮かべながら答えた。「そうかしら。でも、確かに毎日が楽しいわ」

電話を切った後、美樹は庭に出た。柿の実が少しずつ色づき始めている。来週は陽子が友達を連れて柿もぎに来る予定だ。

夕暮れ時、虫の音を聴きながら、美樹は思った。退職して寂しさを感じていた日々が、今では懐かしい。人生には思わぬ贈り物があるものだ。陽子との再会は、新しい扉を開いてくれた。

秋の夜長は、もう寂しくない。むしろ、温かな思い出と、明日への期待で満ちている。美樹は深呼吸をした。澄んだ空気が、幸せな未来を予感させてくれるようだった。

柿の葉がそよ風に揺れる中、美樹は静かに微笑んだ。これからの人生も、きっと素晴らしいものになるだろう。教え子たちとの絆、そして自分の中に眠っていた情熱が、人生の新しいページを開いてくれたのだから。

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