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「自己責任」はどこまで

ある記事をきっかけに、「自己責任」という言葉と社会について、考えています。

内密出産に関する記事

こちらは、身の上の事情から内密出産を望んだ女性と、それを受け入れた慈恵病院側のエピソードです。

意図しない妊娠出産のリスク、コストが不当に女性に押し付けられる、という側面を改めて感じさせられる話でもあるのですが(妊娠を告げた相手はLINEをブロックして逃亡したそうです)

社会的な困難を抱える人の中には、知的発達の上での問題を抱えているひとが、実は相当数いるかもしれない、という問題提起がされています。かつ、女性の場合、それがこういった性や妊娠出産の問題に繋がってしまうと。

これは極めて重要な指摘なのではと思います。

以下は記事内のお医者さまの言葉の引用です。

「そもそも軽度知的発達症の人は人口の1%弱になり、境界知能は人口の14パーセントほどにもなります。こうのとりのゆりかご(赤ちゃんポスト)に預け入れる女性も、安易な預け入れなどではなく、ほとんどがこうした発達症や精神疾患の問題が背景にあり、SOSがうまく出せずに孤立して追い詰められた状態にあるのではないかと私はみています」

※IQの平均値はおよそ100。軽度知的発達症は平均でIQ50-75、グレーゾーンである境界知能は、IQ70-85。見た目ではほとんどわからず、一見普通の人に見える

私たちに染み付く自己責任の考え

こういった話があった時に、私たちは、

「なぜ誰にも相談しなかったの」

とか、

「知識のなさ」「モラルのなさ」

などと、個人の責任の範疇にある言葉でつい考えてしまいがちです。

性教育でも、「知識がありさえすれば、相談できる先があれば違う、違ったはず」という思いのもと、健康教育やその周辺のことを語る人は多いでしょう。

もちろん、それで変わる人、救われる人はいるけれど、もしかしたら、最も深刻な事態を引き起こしているのは、「その知恵を飲み込めない、活用できない人たち」なのではないでしょうか?

それは、本人たちの「自己責任」と言って、解決する話なのでしょうか?

上記の記事内にもありますが、ホームレスをしている人の中にも、知能の問題を抱える人は実は多い、という話は、ずいぶん前に別口でも聞いたことがあります。

IQの発達には、もしかしたら後天的な栄養状態も関わるのかもしれないけれど、やはり生来もらった身体や、生育環境による部分が、大きいのではないでしょうか? そう思うと、その本人のありようが、すべて本人の責任であるとは言い難いはずです。

私たちが人間性や道徳性を語るとき、みんなそれを、基本的には自己責任のものと捉えていると思うのですが、この話が成り立つのは、それらを醸成できる知能や認知がある人間だけの話なのかもしれない、、、というのを、改めて考えさせられています。

「妊娠を告げられて、LINEをブロックして逃亡」なんて、ありえない!と、わたしは【ふつうの】感覚で思いますが、もしかしたら、この相手の男のモラルの低い行動の背景には、「誠実に対応する思考回路を組み立てられない」という困難がある、あったのかもしれない……と思うと、物事を見る目が変わりませんか。

私たちが自己責任として当然に捉えている部分や、自分の努力や研鑽による成果だと思っている部分は、天からもらった力があってこそ育てたれた能力なのかもしれません。

『初恋、ざらり』

なお、わたしがこのトピックについて非常に考えさせられたのは、この記事が初めてではなく、Twitterで流れてきて知ったある漫画がきっかけでした。

こちらの記事がよくまとまっていますが、これは、軽度知的障害と自閉症のある女性の恋愛模様と日常生活を描いた漫画です。(作者は発達障害の当事者)

主人公の女性は、軽度知的障害がある中でも、障害者向け作業所ではない場所で普通に働いていて(作業所は賃金が安いから、という理由)、でも、普通の人が暗黙の了解でわかるちょっとしたことが自然できず、日常や仕事で様々な困難があり、人から嘲りを受けたり、人を困らせたりして、自己肯定感が持てずにいます。

彼女は、社会に居場所を見つけられずにいるために、人の役に立とうとして、好きでもない男に簡単に体を許してしまうという困難もあります。この辺は、単に男性側が障害のある女性を利用しているとか、女性蔑視をしているとか、そういう議論だけでは片付けられない難しさがあるなと感じます。

漫画の展開としては、仕事先で出会った岡村さんという朴訥とした普通の男性と恋に落ちていく過程が丁寧に描かれていて、この辺は普通に胸キュン要素もありますが、彼との恋愛でも、自身の障害を告白する過程を通じてまた様々な困難が発生していきます。(ただし岡村さんはすごく良い人で、本人には元来悪意はないけれど…という種類の困難です)

主人公の女の子が、ちょっとしたことに戸惑ったり、気持ちをうまく言語化が出来ず、簡単な言葉に落とし込んで混乱する様子が本当にリアルで、今の世の中って、「ふつうに」暮らすだけでも、けっこう高度な認知能力が必要とされるんだなということと、この知能が乏しいことで社会から弾かれるつらみが、よく伝わってきます…。

この漫画が共感を呼ぶ理由

私自身も、この漫画は結構心にくるというか、感銘を受けるものがあるのですが、同じように、必ずしも障害の当事者ではない人々にも、共感が広がっているようです。

それはなぜかと言ったら、主人公が抱えている困難が、私たちが社会で出会う困難と、どこか同じ形をしているからなのだと思います。

軽度知的発達症となれば、困難の理由はある程度明らかになりますが、そうでなくても、世の中が求めてくる暗黙の「ふつう」になかなか沿うことができずに、人から拒絶されたり、嘲られたり、会社や学校などのコミュニティで叱責されたり、失敗をしてしまったり……という経験を持つ人は、少なくないでしょう。

その時に感じる辛み、痛みは、誰しも共通のものです。

自分の人生は自分だけのものではない

私自身、幼少期からティーンにかけて、太っていたり、オタクだったり、あまり空気を読まなかったり、物事をはっきり喋らないところがあったせいなのか、特定のコミュニティ(スクールカースト上めみたいなタイプ)の女の子たちから嘲られたり、馬鹿にされたりということがたびたびありました。(今は人前に出るとシャキシャキ喋りますが、素は根暗ですし、オタクっぽくて何言ってるかわからないタイプですww)

明確ないじめまではいかなくても、いまだに嫌な気分は忘れません。「普通に」振る舞えないこと、なんだか周りと馴染めないことは、辛いんですよね。

それでもまだ私は、そこそこ勉強ができたり、好きなことが色々あったりして、それを伸ばしたり、楽しんだりすることで、自分に合うコミュニティを探すことができて、その辛みを相殺できる人生ではありました。

これは私すごいとか言いたいわけでは全くなくて、むしろその逆で、私がそう出来たのは、たとえばその「勉強、好きなこと」を伸ばす能力、好きでいられる能力、環境をたまたま天から貰っていただけに過ぎなくて、必ずしも自分の努力ではないのかもしれない……ということを考えるのです。

では、それがない人はどうしたらいい? 誰にもかえりみられず、それを自己責任だと言われるのだとしたら、それはとても、残酷な世界なのでは、、、

自分の人生は、自分自身の元のスペック(つまり天から貰ったもの)と、周りの多くが関わって初めてできるものであって、それを「自己責任」なんていうことは、社会的動物である限りは特に、やっぱりちょっとおかしいんじゃないかな、と思います。

まとめ

「ふつうは」「常識では」

私たちは、こんな言葉で、人をジャッジします。いまはたぶん、その言葉のハードルが、色んなところで高いのです。

学習能力、判断能力、コミュニケーション能力……これらの自己責任性が強く強調される世界は、一部の強者にとっては、とても自由な世界だけど、そちらに標準をあわせた正解を世に求めると、それに至らない人がどんどん辛くなっていくし、誰しもが「至らぬこと」に怯えながら暮らす社会ができていくでしょう。(実際、いますでになっていると思います)

でも、強者ですら、そうできている力は自分の努力だけではないはず。それは天から貰った力、周りの環境が起源です。(「天」を宗教的な表現と感じる人もいるかもしれませんが、人のコントロール下にはない要因という意味で、「天」という言葉が的確だと思っています)

煉獄さんのお母さまがとてもいいことを言ってるので引用します。

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そういうことです。

強い人は、その強さを自分のおかげといって自慢したり、自分の力を基準にして人をジャッジするべきではない。

強い人だって、いつどんな要因で弱い側にいくかわからないし、シーンを変えればすでに弱者である可能性もあります。人をジャッジすれば、いずれ自分にもそのジャッジが降りかかります。

わたしはこの話を、社会がおかしい、という漠然とした話にはしたくありません。こういう語り口は、「私は悪くない」と、自分と問題を切り離してしまうからです。

社会やお上じゃなくて、私を含めたみんなが普段やってる能力ジャッジ・雰囲気ジャッジが、この世界を作り上げている。これは個人の日常に地続きの話です。ここだけはひとりひとりの「自己責任」です。

「ふつうはもっと出来るはず」

を自分にも課さず家族にも課さず周りの人にも課さず。

欠けているところを、たんたんと見て、飲み込めるものはなんとなく飲み込んで、自分の手に余るものは、複数人で飲み込んで、困難も苦しみも、みんなで共有していけたなら。

弱い人には生きやすい社会になるし、強い人も、不必要に強くいる必要が減って、やはり生きやすくなるのではないでしょうか?

私自身も、「ふつうは」「もっと」「ありえない」のような言葉を、どんどん無くしていきたいな、と思っています。

優しい世界を作るなら、まずは自分から、です。



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