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待つ仕事

わたしの仕事を、「待つ仕事」と表現した人がいて、それはとても的確な表現だなと思う。

つくばは、比較的人の入れ替わりが大きいところだと思っていて、学生たちと関わるとなると、特にそれを強く感じる。仕方ないけれど、仲良くなった人と離れるのは寂しいものだ。

自分が学生のときの喫茶店のアルバイトで、とても印象に残ったある日の記憶を、久しぶりに思い出した。

11時の少し前、ランチのピークが始まる前に、週に1-3回くらいの頻度で来る、外国のお客さまがいた。眼鏡をかけた、30-40くらいの男性。

注文はいつもエスプレッソのデミタス。入り口のすぐ近くの席が彼の定位置で、いつも本を読んでいる。

「お待たせしました」と、会計時の「ありがとうございます」しか、コミュニケーションはほぼない。名前も知らない。でも、彼が来ると「あ、いつもの人が来た」と思うし、ちょっと嬉しい。

そんな日がずっと続くと思っていたけれど、2年くらい経ったある日、帰り際に珍しく彼の方から話しかけてきた。

「今日でおわり。国にカエリマス。今までありがとうございました」

わたしは突然の話にことばを失ったのだけど、いつも一緒に店頭に立っていたオーナーのおばさんが、

「そうですか。お元気で。さようなら」

とにっこり、さっぱり告げて、それが別れになった。彼が帰ったあと、おばさんに「寂しいですね」と言ったら、「これを一期一会っていうのよ」と、穏やかに笑いながら言う。

わたしはあまり経験がないけれど、きっとおばさんはたくさん、そんな関係性を見てきたのかな、と思った。

アルバイトから帰ったあと、部屋で泣いた。別に彼に特別な感情はない。ただ、いつもの時のかけら、いつもの日常の小さなピースのひとつが失われたのが、寂しくて。

めっちゃ仲の良いひと、大好きなひとなら、連絡先を交換して、たまに会ったり、話したりできるけど、名前も知らない、仲も良くないひとは「さようなら」なのだ。

「フォレスト・ガンプ/一期一会」という映画が中高生の頃にあって、好きで小説版も持っていたけれど、そのときは「一期一会」の意味がわからないなあ、と思っていた。国語辞書で引いてもなんとなくしかわからない。

わたしはこの日、この言葉が含んでいるものを、初めて理解した気がした。避けられない別れとセットの、喜びと寂しさ。それが生きるってことなのかもしれない、と。

用もないのに会えていたあなたは、わたしにとり、特別なひとだった。

なんで時が止まらないんだろう。もちろん、生きている限りそれが仕方ないのは知っているけれど。

あの時から、わたしの夢は、少しずつ育ち始めたのだと思う。

わたしは、用もなく、たくさんの人に会いたい。

日常のかけら、時のかけらをたくさん集めて愛したい。

「待つ仕事」の喜びは、いつも感じてる。

たまに感じる寂しさは、わたしの苦しみだけど、でも、わたしはきっと、ずっとこの仕事を続けるだろう。

底無しの寂しさが、わたしの愛なのだろう。

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