龍の背に乗れる場所 4
必要とされたい、そう思う時程、必要とされない。
それは私自身がいい加減な人間で、私以外が常に進んでいるからだろう。
一緒に辿り着きましょう。
そう言って欲しかったと感じたのは、何も私のエゴでは無い筈だ。
何故、違う言葉だったのか。愚鈍な私に知る術は、もう永遠に訪れない。
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私が酒を呑むのは何も好きだからではない。好きで呑んでいる訳では無いのに呑み続けるのは、忘れたい事やどうにも自分の頭では解決できない蟠りがあるからで、そういった事象が多すぎるから酒に逃げ、酒から逃げられなくなっているのだ。
下着姿でお湯を沸かし、カップ麺の蓋を開けて準備をしていると玄関チャイムが鳴った。
「田端さん、お届け物でー、す?」
扉を開けると、そこには見慣れた宅急便の制服を着た男性がいて、私を見るなり顔を引き攣らせた。何か私の顔に付いているのかとも思ったが、そう言えば下着姿のままだったと迂闊な自分を呪った。
宅急便屋というのは制服を着た有象無象だ。誰も制服の中に存在する個人に興味を抱かないし、荷物のやり取り以外を望まない。事実、私もそうなので、今更下着姿を隠す事もせずに対応した。
「田端カオルさんですよね」
宅急便屋がそう聞いてくるので、その時少しばかり頭が働いていた私はこう答えた。
「確かに田端カオルと私は呼ばれているけれど、それは個人に付けられたタグのようなもので、本当の意味での田端カオルは此処には居ないのかも知れない。私は此処に存在するけれど同時に存在していないのだと思う」
「あ、ここに受け取りの判子お願いしまーす」
私の答えに納得したのか呆れたのか、はたまた興味が無かったのか、宅急便屋はお決まりのライン作業のような工程を経て、私に荷物を渡して帰っていった。
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今まさにインターネットショッピング業界で、密かなファンの増えつつある商品がある。
パソコンを持っていない私は、金と時間と正常な意識のある時にネットカフェなる場所に出かける事があるのだが、その時に見つけたある商品のデザインが気に入って勢いで購入ボタンを押してしまった。
万年金欠の私は支払い方法を『振込み』にして、路上で泡銭を稼いだ翌日に購入代金を振込んだ。
ポケットブラと銘打たれたその商品は、所謂、ブラジャーの一種で、今までには無い画期的な機能が搭載されており、ティーン以上の女性の間で火が着き始めていた。
従来のブラジャーは内パットが均一な形で装着されているので、急な刺激や情感の高まりで勃起した乳首の痛みに対応できない。ポケットブラはそんな悩みを解消し、内パットに窪みをつける事で女性特有の悩みを和らげる、という物だ。構造の正式名称はチクビポケットだった。乾燥麺のタマゴポケットから着想を得たとしか思えない。
私には意味の無い機能ではあったが、デザインが気に入ったので無駄な出費だとは思わなかった。毎日無駄な出費を繰り返している私が、初めて購入した無駄では無い物だと言える。
その時の私は、無駄では無い物が欲しかったし、無駄では無い物を確かに失った直後だったから、帳尻を合わせたかったのだと思う。全てはバランスが大切だ。バランスを失くせば、そこからは狂うしかなくなってしまうのだ。
真っ白く、何処までも白だけで構成されたその商品と、メーカーのロゴである長い髪の女が、私の心を揺さぶって止まなかった。
早速荷物を解き、商品を試着しながらホームセンターで購入した安い姿見の前でポーズを取っていると、お湯が沸く音が聞こえたので慌てて火を止めに行った。
猛暑猛々しく、服を着る気にはなれなかった私は、新しく手に入れたブラを装着したままでカップ麺を啜った。古いものを捨て去って、新しい物を着けても下着は下着。そこに優越感を見いだせるのは本人だけであり、他者から見れば、まるで裸の王様だ。
裸の王様は、猛暑に湯を沸かし、蜃気楼が見えそうな部屋に閉じ籠もって熱いカップ麺を啜る。
私は僅かばかりの栄養を摂る為にカップ麺を食べる。
必要だから食べる。暑くても熱くても、それが必要だから難しく考えずに食べるのだ。
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白井という名の女がいた。
彼女と出遭ったのは珍しく霧が立ち込めていた冬の夜で、公園の砂場の真ん中で壊れていたのを拾ったのが最初だった。
その時の私は相変わらず酔っ払っていて、酒場から自宅までの道を、ふらふらと歩いていた。
笑い声に釣られて近付き、月夜に映える白いコートを羽織り、長い髪を振り乱して大声で笑い続ける彼女と一緒に笑っていたものだ。
その内、事切れたように暫く静止した彼女は、不意に訳の分からない魔法の様な言葉を発しては、また笑いだしたので、流石に私も面倒になって公園から離れた。
卯の花月夜は肌寒く、酒で温まって感覚がほとんど無くなった私にも、等しくその冷気を吹き付けてきた。
千鳥足でアパートに辿り着き、焦点の定まらない視界を制して鍵を開けた。
白井が私の後を着けて来ていたのは解っていたので「入る?」と聞くと、以外にも普通の声で「いいの?」と返答があった。
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あれやこれやと喋りながら呑む酒はまた美味かった。
話してみると白井は狂人ではあるが面白い奴で、私には想像もできない架空の世界で起こった話を聞かせてくれた。
話の主人公は必ず白井自身で、物語の中の彼女は魔法を使い、剣を振るい、凶悪な化け物を仲間と一緒にやっつける勇者だった。
まるで本当にあった出来事の様に話すので、彼女なら本物の詩人になれるかも、と思った。
お互い酔っていたせいもあり、何方からともなくスキンシップを始め、最後はとうとう越えてはいけない一線を越えてしまった。
意味もなく出遭った私達だったが、公言できない秘密を共有するに当り、お互いの存在を意味のあるものだと捉え始めた。少なくとも私はそうだった。
それからも白井は、何かある度に私のアパートの扉を叩き、あれやこれやと不可解な御伽噺で私を楽しませ、最後は縋るような目をして私に絡みついてきた。
私も何故か満更では無かったし、彼女の狂気は私の胸にぽっかり空いた場所で揺蕩っていたものだから、その度に私達は秘密を深めて行った。
白井の色っぽい喘ぎ声や、すべすべした肌理の細かい肌は、確かに私を欲情させたし、それまで感じた事のない境地へ少し近づいた感はあった。
しかし、ただそれだけで、加納が指摘した通り、やはり自分は不感症であると再確認させられる事にもなったが、それでもそんな関係を止めなかったのは、お互いが寂しかったからだと思う。
白井は私の指で何度も絶頂を迎え、何度も私の背中に事実上の爪痕を残した。私は彼女が満足する顔が好きだったし、彼女にしてもそれ以上何も求めてこなかったので、上手く行っているのだと思っていた。
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数日前に白井が訪ねてきたので、私達は何時もの様に酒を呑み交わし、何時もの様に全く現実味の無い話で盛り上がった。
彼女は珍しく上等な箱入りの酒を土産に持って来ており、それを惜しげもなく二人で空けた。
相変わらずの熱帯夜だったが、上等な酒のお陰でそのストレスは軽減された。
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昼前に起きた時、白井の姿は既に無く、机の上には『カオルは絶対に辿り着いて』と書かれたメモが置かれてあった。
私は無意識の涙を流し、喉を掻き毟った。掻き毟りながら、意味のない言葉を大声で叫んだ。その声は酒焼けした掠れた物だった。
酒に焼けた、こんな腐った喉なんて、どれ程の価値もない。
だから跡が、血が滲むまで掻き毟った。
どんなに言葉を交わし、身体を重ねても、結局のところ他人の考える事を砂粒程も理解することは難しい。
白井が高いビルの上から身を投げたと知ったのは、その日の午後だった。