見出し画像

龍の背に乗れる場所 6

 路上詩人を続けるにはコツが要る。

 何も考えず、同じ場所で店を出し続ける奴は必ずいなくなる。毎日場所を変え、しかし遠すぎず近すぎない位置を測って出店しなければならない。

 私は今までの経験から、幾つか穴場と呼ばれる場所を知っていたが、それでも連日そこへ行く事はしなかった。そうしないと危ないからだ。

 ・

 何時ものリュックに商売道具を詰め込み、片腕に茣蓙を抱えて電車に乗った。電車の中にはOL風の女や大学生らしき女、中年の粧し込んだ女や背の曲がった老婆がいる。適当に乗ったのだが女性専用車両だったらしい。

 こんな時、女は得だとしみじみ思う。男なら間違えないように考えて遂行しなければいけない事を、女なら考えずに遂行出来る。

 大学生らしき女が数人、こっちを見てクスクス笑っている。OL風の女が汚い物を見るように軽蔑の視線を送って来る。中年の女と老婆は我関せずといった態度で、此方を見ようともしない。

 何時もの事なので普通なら気に留めたりはしないが、その日は車内の冷房が効き過ぎていて、運転手の走行が乱暴で、蝉が煩くて、車窓から覗く景色が早すぎて、とにかくそんな色々が重なり、胃の中にある物が逆流しそうになっていた。

 今此処でぶちまける訳にはいかない。女子大生やOLの前で弱味を見せる訳にはいかない。これ以上、こいつらとの差を広げたくはなかった。

 ・

 駅のベンチで、何度も襲ってくる吐き気を収めようと深呼吸したり、背筋を伸ばしたりしてみた。どれも即効性はなかったが、暫く冷や汗をかきながらジッとしていると、次第に波が収まってきた。この猛暑日に、冷や汗をかいて座っている自分が滑稽に思えた。

 結局、女性専用車両では、奴らとの差が大きく開いてしまったし、茣蓙にも少し掛かったので酸っぱいスナック菓子みたいな臭いが、何時迄も私の周囲を漂っている。

 目の前を何度も何度も、人を大量に乗せた電車が通り過ぎて行き、ようやく動けるようになった私は、次に来た電車に乗り込んだ。

 車内に人はおらず、がらんどうで、長座席の真ん中にどっかりと座った。一つ前までの電車には人が沢山乗っていたのに随分と変わるものだ。

 車窓から覗く景色は、嫌になるくらい、ゆっくりと流れていた。

 ・

 普段から店を開いている界隈に辿り着くと、直ぐその変化に気が付いた。何時もならゴキブリのように湧き出てくる私のような輩、怪しいアクセサリー商人や適当な言葉を並べる占い師、何だかよく分からない感性を持つ似顔絵描きや公然と嘘を吐くバッタ物売りが居ないのだ。

 公道の脇には数台のミニパトカーが止まっており、女性警察官達が我が物顔で闊歩していた。直ぐに立ち去れば良かったのだが、何となくボーッとしてしまい、その中でも若そうな女性警察官と目が合ってしまった。

 年に数回、こうした一斉摘発が入る。私はその度に上手く逃げていたのだが、今回は腹の調子も悪く、逃げ切れそうにないと思ったので、とうとう年貢の納め時かと観念した。

 ツカツカと此方に歩いてきた女性警察官は「貴女、臭うわね」と、開口一番そう言った。

「貴女も無断で店を出そうとしてたのでしょう? その荷物を見れば解るから正直に言って頂戴」

 胸の名札には、有吉麗子と書かれていた。

「……、無断で出そうとしていたんじゃない。無断で出そうかどうか考えていたんだ」

「同じ事よ。商売をするのは構わない。でもね、それにはちゃんと国の、いえ警察の許可がいるの。解るでしょう?」

「私は地球に産まれたんだ。言わば地球人。毎日、嫌な酒を呑み、食いたくもない飯を食い、蝉の相手をして、失って、それでも積み上げて、ゆっくりだけど、それは仕方ないんだ。だってそうだろ? 私以外が速過ぎるのだから、仕方ないだろ?」

「何を言ってるのか解らないわ。貴女、大丈夫?」

「解らないよ……、大丈夫……いや、そうじゃないかも」

「取り敢えず、もう行きなさい。その茣蓙を少しでも路上に広げたら、解るわよね?」

「解らないよ……、本当に、何にも解らないんだ……」

「ふぅん」

 有吉麗子は私の手を取り、何処に隠していたのかと思わせる力でもって、私をミニパトカーへ誘った。行って良いって言ったのに……。

 ・

「先ずは自己紹介。私は有吉麗子、今日はね、不正に路上で販売行為をしている人達を取締りに来ました。貴女、名前は何ていうの? あ、取り調べじゃないから記述には残さないわ。安心して」

「……田端、カオル……です」

「そう、田端さんね。貴女、顔色が悪いし、何だかフラフラしていたから少し心配になったのよ。暫く此処で休んで行くといいわ」

 ミニパトカーの中は冷房が効いており、胸糞悪くなるような薔薇の香りがした。綺麗に掃除された車内に、可愛らしく、ぶら下げられたマスコット。整頓され助手席に置かれている資料的な物に、キリッとした女性警察官。車内で唯一、異物感を放っているのが私。

「有吉……麗子さんは……」

「麗子で良いわよ」

「麗子はカルチャーセンターで警察官になったの?」

「カルチャーセンターで警察官にはなれないわよ」

「なら、どうやれば警察官になれる? どうやったら偉そうな側になれる?」

 何故、そんな事を聞いたのか自分でも分からないが、とにかくそんな失礼な話を小一時間程続けた。麗子は嫌な顔は多少するものの、概ね寛大な心で私の問いに答えてくれた。

 彼女は警察官だというのに話し易く、私は気がつけば、あれやこれやと色々な事を語って聞かせ、また彼女も、あれやこれやと色々な事を聞いてきたので、車内に沈黙は産まれなかった。

 法の執行人と法の目を逃れ回る小悪党が、同じ場所で同じ話題に盛り上がっていた。

 話している内に腹具合も落ち着き、もう大丈夫だと告げると名刺を渡された。「何かあったら此処に連絡して」と、まるで同伴を狙う水商売女の様な口調で言うものだから、私も「また今度ね」と返しておいた。

 ミニパトカーから出ると、ムッとした熱気が肌に襲い掛かってきた。ほんの少し、距離にして僅かだけしか変わらないと言うのに、この変わり様だ。

 案外、私と有吉麗子の距離も、思う程には離れていないのかも知れない。

 ただその、ほんの少しを埋めるコツが、私には掴めないのだ。