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龍の背に乗れる場所 3

 蚤の市に行った翌日、私はまたも酷い二日酔いでグッタリしていた。

 目が覚めると便器にキスをしていて、半裸状態で片足には向日葵のサンダルを履いていた。一体、昨夜の私は何を考えていたんだ?

 窓の外では蝉達が喧しく鳴いていて、どうやらその中の一匹が私の頭の中にも紛れ込んでいるようだった。

 ズキズキする頭をかかえて、ゆっくりと立ち上がり、顔を洗いに洗面所へ行った。鏡に映し出されたのは酷い顔だった。乾燥した嘔吐物の飛沫がへばり付いており、髪もグシャグシャで、目も赤く充血している。

 顔を洗うよりシャワーを浴びたほうが良さそうだと思い、洗濯カゴに入れるのも億劫な服を脱ぎ散らかしてバスルームに篭った。

 ・

 昼過ぎに慎吾から着信があった。
 偏頭痛が続いていたので無視しようかとも考えたが、結局電話に出たほうが良さそうだと思い至り通話ボタンをタップした。

「カオル、今日は暇か?」

「暇じゃない日が私にあるような口ぶりだね」

「一応な。俺なりの礼儀ってやつさ。仕事があるんだけど、やらないか?」

「幾らくれるの?」

「一万でどうだ?」

「やるよ」

「じゃあ商店街の入口で二時に待ってるよ」

「え、ショウジョウバエがどうしたって?」

「商店街だよ。何を言ってるんだ、大丈夫か?」

「解らないよ……。蝉が煩くてさ、ほら、聞こえるだろ?」

「聞こえないけどな」

「ああ、そうか……、私にだけ聞こえるんだ。南米の、大きな蝉だよ」

「そんな物、この辺に居る訳ないだろ? というか何で南米なんだよ」

「凄く元気だから」

「……まあ、あれだ。とにかく二時に商店街入口で」

 そう言うと慎吾は、私の返事も聞かずに電話を切った。
 彼はこの町で探偵業を営んでいて、偶にこんな感じで仕事をくれる。仕事と言っても、大抵はペテンの片棒を担がせるような物だったが。

 路上詩人をしている時にナンパされたのがキッカケで知り合ったのだが、話してみると面白く、その独特な思考に一時は魅了されたものだ。

 何度も言葉を交わすうちに彼のメッキは剥げて行ったが、決して悪い人間ではなく、寧ろ金払いも良いので、善良な人間側にいるのだと思う。

 善良なペテン師と言うのも変な話だが、善良な皮を被った腹黒い政治家のようなペテン師よりは、何百倍も人間臭くて好ましい。

 取り敢えず、まだ時間もあるのでゴロゴロしていよう。
 暑いし煩いし怠いし吐きそうだし、直ぐに動く気にはなれない。

 ・

「ほら、あそこ。歩いているデブがいるだろ? あのデブに言い寄って、腕でも組んでくれれば有り難い」

 慎吾は愛車のベスパに乗り、往年の映画みたいな探偵ルックで待ち合わせ場所に現れた。彼の趣味をとやかく言うつもりはないが、もっと景色に溶け込むような格好でないと探偵稼業に支障がでるのでは? と思った。

 場所を繁華街に移し、今回のターゲットと仕事内容を教えられて現在に至るのだが、その内容というのが何時も通り酷かった。

 浮気調査を依頼してきた妻へ報告書を提出するにあたり、旦那の行動に不審な点が無かったので、不審な点を『でっち上げる』らしい。意味が分からない。

「ねえ慎吾、それってある意味、犯罪じゃないの? そのまま提出すれば良いと私は思うのだけど、何が拙いの?」

「あのなカオル、浮気調査を依頼してきた依頼人の心情を考えた事はあるか?」

「ある訳ないよ」

「依頼人は疑ったからこそ探偵を雇ってまで旦那を調べたがったんだ。確かに不審な点がないと分かれば安心はするだろう。だが、依頼人の心の奥底に芽生えている猜疑心は、それじゃ満足させられない。こういう仕事はエンターテイメントなんだ。どうやったら相手がより満足するか、そういう事を常に考えないといけないんだ」

「そういう物なの?」

「ああ、そういう物さ。それに、その方が――」

「その方が?」

「俺が面白いじゃないか」

「あんた最低だな! 本当に探偵なのかよ!」

「当たり前だろ? ちゃんと東京カルチャーセンターで資格も取ったんだ。俺が偽物なら国家公務員の警察官だって全員偽物さ」

 国家公務員資格とカルチャーセンターで取得した資格の違いが、私には解らなかったので、その場はそれ以上の言葉は出なかったが、どうにもモヤモヤは拭えなかった。彼と話していると、何時もこんな風に言いくるめられている気がする。

 ・

 私は打ち合わせ通りデブに近づき、適当な言葉で逆ナンパをした。
 体中から絶え間なくダラダラと汗を流し、絶え間なくハンカチでそれを拭っているが、そんな汗水程度で痩せる事は絶対にない程のデブだった。

 こんな見てくれの微妙な奴に固執する妻の気持ちは分からなかったが、馴れ初めた時はもっとこの男も格好良かったのかも知れない。

 デブはブヒブヒと豚語を話し、私から腕を取るより先に、腕を組んできて、ホテルへと私を誘った。

 ねえ慎吾。こいつに不審な点は、本当に無かったの?

 今頃、私達の後ろでは慎吾が証拠写真を、これでもかと撮っているだろう。その証拠写真は依頼人へと渡り、このブタは冤罪で糾弾されるのかも知れない。

 わずか一万円で、人の人生なんてどうにでも転ぶのだ。そしてその一万円は、私の酒代に消えるのだ。そしてその一万円を払ったことで慎吾はより多くの依頼料にありつくのだ。

 上手く出来ている。世の中は本当に上手く出来すぎていて、私が立ち向かうには力も金も人望も知識も何もかもが足りない。

「やばくなったら適当に逃げてくれ」と言われていたが、私にはこのブタが可哀想に思えて、逃げる事をしなかった。不感症の身体がこれほど有り難いと感じた日は無かった。

 ・

 後日、慎吾から渡された封筒には一万円に加えて、一円玉が二枚入っていた。

 二枚の一円玉。私が行った残業の価値など、こんなものだ。
 慎吾はその事をよく解っていて、私もその事をよく解っていた。

 私はコンビニに寄り、缶ビールを六本買った。

 募金箱に二円を入れてから店を出て、呑みながらブラブラと歩き続けた。