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龍の背に乗れる場所 5

 始まりは何時も偏頭痛からだ。

 白井の葬式でしこたま酒を飲み、葬儀場として貸し切られていた公民館で夜を明かした。かつて私と共にいた白井は、お喋り好きで、狂っていて、気配りが出来て、寂しがり屋の女だった。

 葬式の二次会でのどんちゃん騒ぎは故人を寂しがらせない為の物。誰が言い始めたのかは知らないが、その言葉程、白井の葬式で現実味を帯びない物はない。

 葬式に集まったのは白井の事など何も解っていなかった偽善者だけだ。私も含めて、全員偽善者だ。もっと彼女と真摯に対峙すれば、もっと話を聞いてやれば、もっともっとなんちゃらかんちゃら……。頭の中で、蝉が二匹に増えていた。

 公民館の内部は冷房が効いていて過ごしやすかったが、私の内部は燃えていて、たとえそこが北極であったとしても暑いと感じたに違いない。

 のっそりと起き上がって、残っていた酒を物色し、チビリと呑んで遺影の前に移動した。なあ、白井。なあ、白井。なあ、白井――。私は心の中で彼女に質問し、その答えが返ってこないのが分かると踵を返した。

 封の開いていないウィスキーのボトルがあったので、それを片手に公民館を出た。誰かが忘れて行った紺色の野球帽が目についたので、それも一緒に拝借した。

 一歩外に出ると気温差から来る変調で、胃から何かが込み上げて来そうになる。盛夏にしては柔らかい日差しだったが、それでも長時間歩いていると肌が焼けそうな感覚になる。

 フラフラとウィスキーのボトル片手に歩く私は、何処に辿り着こうとしているのだろうか。

 並んでいる街路樹の中から一本選び、その下に座ってウィスキーの封を開けた。町中の、それも椅子も何もない街路樹の下に座って酒を飲む私を、多くの目が捉えて行った。それは大きい目であったり、小さい目であったり、複眼であったり。

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 何かが、すっぽりと頭に被さったと解ったのは、定まらない視点を何とかしようとしている時だった。私は一瞬止まって呆けたが、直ぐに頭を覆っていた虫取り網を跳ね除けた。

 網の主へと鋭い視線を走らせると、そこにはよく知った知人の姿があった。

「あちゃー、逃げられたか。カオル、じっとしていてくれないと駄目じゃないか」

「いきなり網を被せておいて、酷い言われようだね」

「いきなり? おかしな事を言うね。何度も合図を送ったじゃないか。その度に君はコクリと頷いていたじゃないか。それにその紺色の帽子、蝶の習性を君が知らないとは言わせないよ」

「バランスをとろうとしてたんだよ。全てはバランスなんだ。夏に対する冬のようにバランスが大事なんだ。南米の大きな蝉もバランスよく二匹になったし」

「何っ、どこにいるんだ! 南米の大型蝉といえばユカタン・ビワハゴロモの事だろうが、厳密に言えばこの種はツノゼミであり多くの日本人が蝉と呼ぶ物とは基本構造が違う。例えば特徴的な頭飾りにしても以前は発光するとか悪霊が入っているとか言われていたのだが、実際は空洞で――」

 偏頭痛が酷くなり、頭の中で蝉が不協和音を奏でていた。彼が何を言っているのか分からないが、それは今に始まった事ではない。

 この男の言う事はいつも説明臭く、知識のひけらかしで、九割生きていく上でどうでも良い事だ。いや、二十割どうでも良い。

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 茂木を初めて目にしたのは子供の頃だった。何歳だったかは忘れたが、とにかく、まだ夏になると網を持ってカブトムシを狙っていた頃だ。彼は近くのコンビニでアルバイトをしているフリーターだった。

 普通、子供が単独でコンビニに入ると、万引きを警戒して店員は目で追ってくるのだが、彼はそんな事なんて、どうでも良いらしく、雑誌を読むのに忙しそうだった。

 ある夏の早朝、近くの林でカブトムシを探していると、フラリと彼が来てこう言った。

「ねえ君、カブトムシやクワガタは探すものじゃない。おびき寄せるんだ。人間と昆虫、これは双方の知恵比べさのさ。このバナナトラップをあげるから、木に括り付けて一時間後にまた来てごらんよ」

 私は女だてらに昆虫が好きで、特にカブトムシは好きだったのだが、毎年、大した数は採れずに悔しい思いをしていた。

 それが茂木の教えてくれた方法を試してみたところ、嘘のような数のカブトムシが採れたのだ。それからの私は、事ある毎にコンビニへと通い、茂木に昆虫の事を教わった。

 茂木は客が居なければ、ずっと私に知識を与えてくれたし、客が居ても、そこそこ与えてくれた。要するに、彼にとっては仕事より昆虫の話の方が大事だったのだ。

 彼は大学の上の教育機関を出ているらしく、何でも博士号という大層な物を持っている癖にフリーターをしている変わり者だった。

 カブトムシ、アリ、ハチ、トンボ。特にセミに関して彼が教えてくれた事は面白く、それは酒でほとんどの脳細胞が死滅して、豆粒程になった今でも明確に覚えている。

 生涯の九割以上を地中で過ごし、やっと成虫になっても一週間しか生きる事が出来ない虫。だからこそ必死で求愛し、意欲的に飛び回り、死ぬ直前まで行動原理を貫く虫。それは純粋に美しく尊い命だと、その時の私は確かに感じた。

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「旅に出たい気分だよ。蝉が沢山いたら私を運んでくれるかな?」

「蝉に限らず現存する全ての昆虫で、密集したとしても人間を運べるようになる物はいないよ」

「なら、私は何に乗って移動するべきだと思う?」

「人間が造った物なら車やバイク、動物なら馬やラクダじゃないかな。空を飛びたいのなら飛行機だ。昔はロック鳥という大型の鳥もいたようだが、現在は絶滅しているしね。空想の海での話なら、龍に乗るのが爽快かも知れないね」

「そっか……」

 私が考え込んでいる間に、茂木の姿は消えていた。先程、私の帽子に止まった蝶の類を追い掛けて行ったのだろう。

 彼にとって昆虫は人間よりも魅力的な存在だし、彼の生き甲斐そのものだ。それを知っているので、とやかく言う気にもなれないし、また、言うべきでもない。

 何であれ、人生において夢中になれる事を見つけた人間に、それをやめろと言うのは死刑にも等しい事なのだから。

 私はもう片頭痛の限界を迎えていたが、それでも頑張ってウィスキーをラッパ飲みした。私が手に出来る未来なんて、どうせたかが知れている。茂木のように学業を頑張った訳でもないし、白井の様な想像力溢れる奇才でもない。

 不感症なのに感じたくて、縛られるのが嫌なのに自分を縛っている愚か者だ。街路樹にもたれながら酒を飲み、奇異の目に晒される程度がお似合いの女なのだ。

 高い空が夕焼けに染まる頃、私は家にも帰らず町中で酒を煽り、自分で自分を追い込んでいた。始まりも終わりも偏頭痛。そんな生き方が、本当に目指した自由だというのなら、自由なんていくらでも金で買えるじゃないか。

 私が目指したのは、私が辿り着きたいのは、もっと……。
 そんな事を考えている内に眠ってしまったらしい。

 ……そろそろ働かないと。逃れようのない夢が私に語りかけてきた。