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『無知は罪』と言う世界。

『それはプロフェッショナルであることに必要な意識なんだ』

僕に仕事を教えてくれた『あの方』の言葉です。
仕事をする上で、業界によって違いはあるのだろうけど必要な知識を持たずに、飛び込んでしまったりするとギャップによって、死んじゃいたくなるぐらい物事がうまくいかなくなったりするんです。

これは僕が実際に転職をした時の話です。

社会人になって幾ばくか過ぎた頃。
とある地銀の破綻が原因で、勤めていた会社が閉業しました。
勤めていたのは靴の小売店をいくつか営んでいる会社。
僕はそこで従業員4名の小さなお店で店長と呼ばれていました。僕が店長なのは仕事ができるからではなくて、そのお店で唯一の正社員だったからです。
恥ずかしいことに、それまで目の前の仕事、それこそ申しつけ頂いた事柄に精を出す事がすべてだと思っていて、仕事の満足感や評価を頂いていました。当たり前に言われたことを頑なに行っていれば、評価をしてもらえたし、それでいいと思っていたんですね。
だからこそ、気がつけなかった。自分がどのぐらい不勉強で、役に立たない人間なのかということを。


『自分はできる。という謎の自信』

今考えるとまったくもって謎なのですが、当時の僕はいろいろと勘違いをしておりまして…。なんというか非常に自信過剰な若者だったと思っています。

接客が好きで、愛想のよい若者だったと思います。お店では売り上げも上げることが出来ました。同じ部署の先輩が急にやめてしまったことで、仕入れを触らせてもらうことが出来ました。
オーナーの世代交代のタイミングが合って新店の開店も任せていただけた事や、店舗の設計、在庫の管理、商品の価格決定など。中小企業だからすべては自由にさせて頂けたんですね。

今思えばよく許してもらえたと思うぐらいには、ハチャメチャなことをしていたと思うのですが、いくつかの大きなラッキーが重なって担当する仕事に売り上げや在庫の回転率といった数字が付いてきて、わずかながら成果を上げることが出来ていました。

会社として大きくなるための新店を2店舗担当させてもらったことも充足感につながりました。

これが大きな誤解…自信になってしまっていたんですね。


転職って、難しい。と思った。

はじめての転職の機会を迎えた僕は、小売、流通から離れることにしました。謎の自信があったからということもありますが、それまで居た会社での仕事が、閉業に向かう段階で急速に面白くなくなっていたことが原因でした。

同僚だった人たちが同業で靴の問屋さんや小売りに転職を決めていく中で、自分は新しい世界に行くんだ。みたいなことを考えていたのだと思います。

ところが就職が決まらない。

小売業で店員をしていた、学歴もない人間…。時々アルバイトを挟みながら一日1通手書きの履歴書を書いて投函する生活をはじめて、1年を過ぎたころにはしょげ始めてきます。

ネガティブを拗らせ始めていきます。
それでも生活のために、安い時給のアルバイトに出かけていく。元同僚たちとも連絡を取らなくなっていきます。

時給750円からのリスタート

とあるアルバイトをはじめました。ローカルの広告代理店が募集していた時給750円のこの仕事は、いわゆる公共事業で、期間限定のオフィスワークでした。

面接のとき、一着しか持っていないリクルートスーツに袖を通していきました、希望者が集められた控室には、僕以外に6名ほど。ちなみに僕以外の応募者は女性ばかりで、スーツも様になっている方たちで、(時給750円のアルバイトだよな?)と挙動不審になりながら、また場違いなところに来てしまったなと思ったのを覚えています。

4人づつ、面接を行う部屋に通され、大柄な男性の面接を受けました。この面接に来た「貴重な男性」という理由で採用され(今の時代だと怒られる奴や…)生まれて初めてのオフィスワークの職に就きました。

外勤に出ないアルバイトは私服での通勤がOKだったのは助かりました。

契約期間は約4か月間、必死に(もうほんと驚くほどブラックな環境で)働きました。予定の仕事が納品されたとき、4人いたアルバイトは僕一人になってました。

ちなみにどのぐらい、ブラックだったかというと時給750円なのに、最初のひと月以外は本当なら給料が30万円を超えていたぐらいです。

生活はボロボロでしたが、この半年間のおかげで僕は一つの出会いをいただきます。

この広告代理店から印刷物のデザインを受託していた会社、この会社の社長をしていたのが冒頭の『あの方』です。

入社するまで直接の面識はなかったのですが、入社した際に挨拶したときには、ひどく怖い印象でした。
この怖いは、決して威圧的だったとか、暴力的だったとかではなくて、これまであったことない、理解ができない相手と相対したときの怖さでした。

これ以来、僕は仕事で沢山の怖い人と出会うのですが、振り替えると一番怖かったのはこのときだったと思います。

楽しいけど苦しい。

この出会いから4年ほど。
靴屋時代より厳しい給料形態に、ひどいときは半年間休みのない生活をこの方の下で過ごします。
これは今の僕を作ってくれた4年間でした。

広告のデザインやセールスプロモーションのイベント、本を作る編集作業に、それらを組み合わせて作るキャンペーン。

望めば望むだけ溢れてくる仕事を、腕のある人達が作っていく様子を見ることが出来ました。

待遇面で見るととんでもないブラック企業なのですが、仕事の楽しさを、好奇心を満たす出来事を沢山頂きました。

ですが、入社して1年ほどで仕事をすればするほど苦しくなっていった時期がありました。
営業として仕事をしていたんですが、一緒に働くデザイナーさんや進行管理のディレクターさん。企画を練るプランナーさんがお話ししていることがどうにも理解できない。

一生懸命お話しすればするほど、煙たがられている気がして、空回りしていく感じがたまらなく息苦しい。理解していないからクライアントにも説明ができません。

そんな日々を過ごしていたときに、いただいた言葉でした。

『無知は罪』って言ってな。

プロの仕事では知っているのが当たり前。っていう事柄が沢山ある。
知らないことやわからないことを持ったまま仕事をしているのは、プロとして恥ずかしいことなんだ。知識を得ていく為に何をしなければいけないか。突き詰めていかないと、プロにはなれない。
今のお前はまだ、靴屋なんだよ。

決して、叱りつけるわけではなく、諭すように言われたこの言葉が、僕の意識を変えるきっかけでした。


貪欲になる事。

この後少しずつ変わることが出来たように思えています。本を読むようになり、デザイナーさんの意図がわからない時の質問も、例えちょっと嫌われてもクライアントに説明できると思うまで、食いついて聞くようにしました。暗中模索ではありましたが、貪欲に、とにかく理解できるまで聞く。

そうして、自分の中に入れてからお客様に持っていく。

失敗も多かったのですが、そうすることで自分の仕事になっていく実感を得る事が出来たんです。

それから二桁年数が立ちました。
今の僕は時々ですが、紹介される際に『プロ』として紹介いただける事があります。

僕が今の仕事のプロになれているのであれば、それは『あの方』のおかげなのだと、時々思い出すお話です。

素晴らしいプロを束ねていたあの方に。



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