生きたいと死にたいが拮抗する

うつ病のような症状が出始めて数日経ちました。

心療内科・精神科の初診日を待ちつつも、毎日何度もメンタルの大波がやってきては去り、やってきては去り、ということを繰り返しています

もともと最も辛い症状であった胃腸の不調が、内科の薬、精神を安定させる作用のある薬と胃腸薬の合わせ技で解消されてから、ストレスを表出できる先がメンタルへと移行したかのように、心に大波が来るようになりました。そして現在最も耐えづらいのが、訳もなく突然訪れる希死念慮です。

希死念慮、死について考えること、死を望むこと、です。

それはもう突然やってきたかと思えば、訳もなく自信を喪失し様々な内容に片っ端から罪悪感を覚え、1度それらしい死にたい理由のようなものを見つけてしまえばあっという間に心の中で実体化し、もう消えたい、消えた方がいい、と暴れくるいます。

これが本当に辛いのです。気持ちが辛いだけではなく心臓付近が痛くなったり呼吸が苦しくなったり頭がものすごく重たくなったり、あらゆる箇所で体にも痛みを伴います。涙が止まることなく出続け、人前に出られる状況ではありません。

一日に何度も、ふとした拍子に訪れるものだから、やすやすと外出もできません。

そんな精神のコントロールが効かない中、唯一ひょこっと顔を出せる全く異なる感情があります。

今日はそれらについて書きたいと思います。

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気持ちがコントロールから離れ、死に向かう状況の中、必死に、粘り強く荒れ狂う感情に着いてきては抵抗してくるのが、「なんとしてでも生きたい」という感情と、そのために常に戦略を巡らせ続ける自分の思考です。

私にとって粘り強さや執着なんて無縁に等しい言葉だと思っていたのに、諦め早すぎるところがあると思っていたのに…もし映画のような生死の危機が訪れたら、それはもうアッサリと心折れて諦めてしまうだろうなと思っていたのに…

落ち込み続ける自分にどこまでも寄り添って暖かい言葉を掛けたり、そこまで悲観的にならなくていい理由を理論無双して並べたてたり、まるで自分が自分に生きることを説得しているかのようです。

心が痛くなるほど涙が出て、消えたくなりながらも、「この状態で誰かと話して、良くない言葉に遭遇したら本当に立ち直れない可能性があるからそれだけは回避せねば…」と策をめぐらしていたりします。

訳もわからず落ち込んでいく辛い経験をしながら、自分がこんなにも必死に生きることを考え続けていたのかと、本当に驚いています。

希死念慮は侮ることができず、もはや理屈で押さえつけられない程恐ろしく強いです。生きようとする気持ちに打ち勝つほどに希死念慮サイドが優勢の時は、そもそもまともに動くこともできません。

死ぬのにだって気力や体力がいるのです。壮絶な感情の戦いを打ち破って死にたくなっている時にはもう、あまりにエネルギーが残ってなくて死ぬ元気もないわ…という状況でぼんやりしていたりします。

そして、そこにかすかに「死ぬ体力が無くて良かった。生まれつき体弱くて助かったわ。運いいかも」という気持ちが同席しています。

心が折れるパターンを考えて先回りして対策しようとする自分が、別人格のように常に心の中に存在しています。油断大敵、この生き延びたい冷静な感覚や感情が完全無敵でいつまでも強くあり、生きることを選び続けられるかは分かりません。なんせ常にものすごく強い希死念慮が挑みにやってくるのです。それでも、うつ症状が出る前の自分が考えていたよりも、私の中の生きたいという感情は遥かに強烈なものでした。

希死念慮はあまりに強敵で、身の回りの人には本当に心からこんな思いして欲しくないと思います。

最近は生きたい側の戦略により、死にたくなるほど悲しい気持ちになる時は対抗姿勢で打ち消そうとするのではなく、もう少し寄り添って、心の声を聞いてあげてはどうか、悲しみを出すことができた自分自身を、進歩したのだと労わってはどうか、という気持ちが芽生えてきています。

もっと辛いと言っても良いよ、泣いてもいいよ、涙はストレスを下げる作用があるのだし、どんどん泣いて、という感じです。

こういった感覚はこれまであまり感じたことのないものです。この先自分が生き延びることができた場合、強烈な希死念慮も、強烈な生への執着も、はるか昔のものとして忘れる日が来るかもしれません。

人間は記録していないものは忘れてしまう、という言葉を思い出したのでnoteを開きました。今日はこの2つの感情が自分の中に強く存在したのだということを書き残して終わります。

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