個別最適と全体最適②なぜ日本では科学研究に投資されないか?

○初めに

本記事は個別最適と全体最適という観点でお送りした前回の記事で紹介した、「個別最適は仕方がない」、ちょっと言い換えると「自分の効用を最大化するような行動は人間の最も基礎的な行動原理である」(前回の記事では言及しませんでしたが…) という発想を基にしたとき、日本の問題を上手く分析できるのではないか、という試みの第一弾として行うものです。
つまり平たく言えば、「人間が自己中心的にふるまうものだ」という仮定を置いてみて色々な日本の課題を見てみよう!というだけの話です。さてその中でも今回は「なぜ日本では科学研究に投資されないか?」という命題、つまり日本で科学者の窮乏がよく叫ばれますが、なぜそれでも科学研究予算が増えていないか?という話を少しこの視点から考えてみたいと思います。

○利害関係者とその行動

まずは科学技術予算が決定される過程において、利害関係者のそれぞれが自分の利益を最大化するように振舞うとどうなるかを考えましょう。そのためには科学技術予算の決定に参加するプレーヤー(利害関係者)が誰か、それぞれの最も欲する利益とは何か、そのためにどのような行動が観測できるかという設定をする必要があります。それぞれ順を追って考えていきましょう。

・プレーヤーは誰か?

プレーヤーは主に三人います。予算を要求する人、予算を決める人、口をはさむ人。さらにそれぞれ見ていきましょう。
まず予算を要求するのは予算を所管する省庁です。しかし科学技術予算は色々な省庁に分かれて所管されています。一番予算が大きい省庁は皆さんも簡単にご想像がつくと思いますが、科学技術行政を所管している文部科学省です。しかし他省庁も予算を出していて、例えば経産省は「未踏プロジェクト」などがとても有名ですが、産業政策的観点、つまり基礎研究ではなく応用研究の観点から様々な予算を出しています。しかしここでは簡単化のため、文部科学省だけが予算を要求すると仮定しましょう。
次に予算を決める人というと語弊はありますが、国会議員は提出される予算案を基に議論するわけですから、たたき台の予算案を作る人は重要なプレーヤーであり、実質的に額を決める人だと考えてよいでしょう。従って税収との兼ね合いを見ながら予算案の額を決める人は財務省ですから、予算を決めるプレーヤーは財務省だと考えましょう。
次に口をはさむ人、これは最終的な決定を国会が行う以上、財務省が決めた予算案を大筋としては認めながらも、国会議員の意見が反映されることは自明です。従って国会もまたプレーヤーの一人として数える必要があると考えられます。

・それぞれの利益

次に各々が最大化したい利益とは何かについて具体的に見ていきましょう。まず予算を請求する文科省は予算額をできるだけ多く請求したいと考えるはずです。従ってできるだけ予算が多ければ多いほど文科省にとっては得だということが出来るでしょう。しかしあまり法外な額をふっかけた場合、交渉で大幅な減額を迫られることは間違いないことから、あらかじめ正当化可能な予算額であり、財務省も承認可能な予算額が望ましいと考えるはずです。従って所謂ZOPA(Zone Of Possible Agreementの略、潜在的に合意可能な範囲)の範疇に収まる額で、なおかつそれの最大の額が最も効用が高いと仮定します。
では予算を決める財務省の場合はどうでしょうか。この場合特定の予算を優遇することは利益になりません。というかしてはならないはずです。財務省が特定の予算に肩入れした場合、それはいわば予算案を決めるという財務省自体の職分から外れる行為であると同時に、官僚の私情が入ることを許すという意味になってしまいます。それは本来国民の代弁者たる議員が議論することですから、財務省の利益とするのはかえって問題があります。従って財務省の官僚が職務に忠実である、つまりここではオーバーした概算要求を機械的に一律な削減要求をして歳入とのバランスをとることが利益だとしましょう。
最後に国会ですが、議員は選挙で当選することが最も重要だとします。従ってできるだけ自らの得票数が増えるような政策をしたいと考えるため、母集団形成、つまり有権者の中でもマジョリティに訴えるものであるか、エンゲージメント、つまりそもそも選挙に熱心で確実に票を投じてくれる人にささるような政策を行いたいと考えるはずです。従ってマジョリティの利益、もしくは選挙に熱心である程度の集団である人たちの利益がそのまま政治家の利益になると考えることが至極自然な考えです。

・プレーヤーの行動

これは単にそれぞれの利益を最大化させる行動を考えればよいだけです。文科省は予算をZOPAの中でめいっぱい高く申告して、その予算額が妥結できるように精一杯の正当化を行います。次に財務省は特定の政策に肩入れをしないので、概算要求からオーバーした額の削減を行うために各省庁に対して一律に削減要求を行います。しかしこのとき全て割合が同じように削減されるとすれば、全省庁は途方もない予算の額を吹っかけることが最適になります。従ってここは根拠を求め、薄弱な予算から淘汰されていくと仮定した方が自然になります。ここで私は科学技術予算の正当性を主張する論理を組んで根拠をしっかり出せるかどうかが鍵になると思います。ちなみに経産省が計上する令和二年度の科学技術振興費の一般会計の概算要求は1463億円で、結果当初予算1133億円。文科省の同年度一般会計における科学技術予算の概算要求は1兆1921億円で結果当初予算は9861億円。交渉前後の増減比は経産省がおよそ▲22.6%である一方、文科省はおよそ▲17.3%です。これを文科省が頑張っていて概算要求に対して少ない削減比率に抑えているととるか、それとも絶対額で見たら強烈に削減されていると考えるのか、それとも経産省は本来科学技術行政を行う意義が乏しいのにそれと比較して削減率があまり変わらないのは文科省の官僚の力不足だと捉えるかは、なかなか難しいところです。またこれが官僚の交渉における成果なのか、それとも最終的な政治家による成果なのかもまた峻別するのが難しいところです。最後に議員はこの予算要求を基に議員の利益を最大化させるよう増減させる圧力を掛けます。この時補正予算案を除けばそもそもの予算額が増えることはないため、他の予算から削って違う予算に移動すると考えてください。例えばこの時マジョリティとは高齢者であり、選挙に熱心な人々もまた高齢者だと考えれば高齢者向けの予算は増えるでしょう。昨今の日本学術会議の問題を見ていると研究者コミュニティが政治的な集団だとみられることもありますが、そもそもマイノリティであると同時にそこまで一つの利益団体として振舞っているかというとそうではありません。さらにもしエンゲージメントが高いとしても、割とそれは共産党などの特定勢力に限られて政策の意思決定に大きくかかわることが出来ていないことから、殆ど政治家が研究者コミュニティに配慮することはないと言ってよいでしょう。
さて結果はどうなるでしょうか。まず概算要求時には割と吹っかけて出すが、予算案作成時に交渉が行われて削減される。次に議員が高齢者向けなど予算を増やしたいところに移動させ、科学技術予算に動かす人間はいない。もちろん官僚は最終的に議員が増減させるのを見越して概算要求をすると考えると、意外とその余地は少ないかもしれません。ただ官僚の振る舞いに議員の行動が内生化されるという観点は押さえておきたいポイントです。従って結果はショートカットしただけなので変わらず、科学技術予算は削減されたまんまということになるでしょう。

○科学研究に投資されないボトルネック

ボトルネックとしては、財務省が根拠薄弱な予算をばっさりと削ってしまうときに上手く抵抗できなくて文科省所轄の科学予算が増えないという可能性と、政治家が学問に興味がなくてアロケーションしないという二つの可能性があります。だから問題としてはこの二つにアプローチするしかなく、文科省の官僚が他の社会保障費などの予算に投じるよりももっと重要だという根拠が財務省に提示できるようになるか、それとも政治家がきちんとアロケーションするか、それとも国民のマジョリティが社会保障費よりも科学研究に投資すべきと考えるかの三択です。
正直どれもハードです。私は国民が自分の社会保障給付よりも将来の科学投資に回してくれと言うとは到底思えませんし、政治家が票を欲しがる以上政治家へのアプローチも厳しい。一番目もそもそも文科省の人が根拠をしっかりと提示できていないとするにはその根拠が薄弱で、もしかしたら一番余地が少ないところかもしれません。それでも研究者コミュニティが研究費を増やすために頑張るとすれば、

①文科省と繋がりを作って予算削減がされないように論拠を一緒に考える。
②研究者コミュニティとして足並みをそろえ、与党に働きかける。一つの利益団体としての意思決定を行う。
③国民に理解を求める。特に子育て層などに未来投資としての意義を説く。

などでしょうか。なんだか陳腐な解決策になりました。それに②などもものすごく難しいところで、科学研究者は一つの団体として振舞うことが難しい人たちが集まっているともよく言われますし、思想信条が極端に異なっているのも障害となっています。研究者コミュニティがまとまれないのも、本当であれば全体の利益は研究費の増額であるから全員結束した方が良いのに、それぞれの利益は自分の意見の主張だからバラバラになるという、これまた全体最適が個別最適に負けているようで香ばしいです。
そういえば財務省が文系ばかりで科学に理解がないのが悪いという人もいましたが、そんなことは全く関係ないと思います。官僚が配分を決めているとすれば大問題ではありませんか。意外と皆各々の利益を最大化させているだけなんですよ、って思います。強いて言うなら最終的には国民の効用が予算決定に影響しているのだから、国民が科学研究よりも今の社会保障給付を望んでいる、つまり学問は滅んでさっさと自分に給付しろと言っているんだと思います。悪いかどうかは別として、人文・社会・自然科学問わず研究は我々に知という利益を齎してくれるはずですが、そうではないと価値判断している国民があくまで多いというだけの話です。
また私個人としては科学研究費が増えないことが一般的に良くない帰結を招くことが予想されるのであれば、議会制民主主義をとっている意義は直接各国民の利害を反映させずに選良が判断するためだと考えると、政治家がこのコストを払うべきだと思います。
しかしそもそも政治家が悪い、官僚が悪いと他人に責任を求めている時点で、現状を変えることは土台無理な話です。他人に動く理由がないから今の状況に陥っているわけですから。それでも自分が行動せずに他人に動いてもらうことを待つのは、中々頭を使っているとは言えません。研究者がそうしたコストを払ってくれる政治家を見つけ出すか、自身が政治家となった上で研究者コミュニティ一丸となりアプローチしなければならないと思うのですが、それでも纏まることすらできないというのは、やはり学問を修めた人でも負のナッシュ均衡から逃れるのは難しいということを如実に表しているのかもしれません。

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