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別れ話 第6話


「或る雪の降る夜のこと、女の子は•••」
イベントで彼女の朗読を聞きながら、僕は彼女の二面性について考えていた。東京にいる時の彼女は何があっても動じない落ち着いたタイプで、責任感が強く、小さな仕事もきちんとこなす人だった。でもその頃僕たちは、一緒に住んではいなかった。

安曇野に来て、最初の頃は東京にいる時と全く変わらない様子だった。一緒に暮らしてみたら、僕の彼女への気持ちは増すばかりで、彼女を支えたいのに入籍できない自分がもどかしかった。

彼女は仕事で遅くなっても、家に帰ると手早く夕食を作ってくれた。勿論、僕が作る日もあった。

でも最近は、彼女の意外な一面が見えてきた。

彼女は、夕食を作りたがらなくなった。正確に言うと、家事が全くできないくらいに疲れている時が増えた。もともと持っていた性格的なものが同棲してしばらく経ってから表出しているのか、それとも体調が思わしくないのか分からなかった。

もう一つは、夜の営みに関してだ。東京にいた頃、彼女はとてもロマンチストで雰囲気を大切にする様子だった。でも今は、彼女にとってのそれは、子作りをするための営みであって二人の愛を確かめるための行為ではなくなっていた。彼女の排卵の周期に従って、突然その時は訪れる。僕は性の衝動が起こりにくくなっていた。でも、だからといって性の衝動が起こらない訳ではなく、僕の体は素直に反応した。そして、子供を授かることを願った。

「ねえ、もしも私達に赤ちゃんができたら、どんなに素敵かしら」
「僕は君のことが大好きだから、二人っきりのままでも構わないよ」
「私は、どうしても子供が欲しいの。どうして、そんなふうに言うの?」
次の瞬間、彼女は目に涙を浮かべていた。
彼女の二面性を発見した僕は、完璧ではない彼女のことがなおさら愛おしく感じるようになった。東京に居た頃よりも、よく笑うようになっていた。でも同時に、ちょっとしたことでよく泣くようにもなっていた。最近は、その傾向が少し強い。不安定な印象を受ける。できるだけ早く籍を入れて彼女のことを支えたいと思うようになった。

安曇野に来てからもうすぐ半年が経つ。ようやく昨日で、トライアル期間を終え、わさび農園に正規で勤めることになった。給料も、これまでより少し多めになる。子供を授かっても、ぎりぎり大丈夫な収入になりそうだ。

安曇野の水わさびは希少価値が高い。わさびは春に花を咲かせる多年草で、一年中収穫することができるが、水わさびの旬は十二月から二月だ。冬のわさびは、風味と辛みが際立つ。
彼女の児童文学館のイベントが終わったら、僕の勤める農場内にあるレストランでとびきりおいしい「信州サーモンの本わさび御膳」を一緒に食べたいと思っている。その時に、この半年間で少しずつ貯めて購入した彼女の誕生石のネックレスを渡して、婚姻届けに判を押したいと考えていた。

つづく

「別れ話 第7話」は来週末頃の投稿を予定しています。
次回は、note1周年を節目とした記事を投稿させて頂きます。
(12月19日(月)投稿予定)

「別れ話」第5話までリンクしています。よかったらどうぞ(^^)/

猫野サラさんの素敵なイラストを使わせて頂きました。
いつもありがとうございます。(*^_^*)