【小説】「生き直し ~私を探す旅~」 第六話
「じゃあ、次の目的地に行こうか」
龍司の車が発進した。海沿いの道を、元来た方向に進んで行く。
「次の目的地、どこかしら?」
「今度は、萌ちゃんにピアノを演奏してもうらうよ」
「え? 今から大学の練習室に行くの?」
「違うよ、もっともっとステキな所で演奏をしてもうらうんだ」
「演奏大丈夫かな? 今日、練習さぼっちゃってるし」
運転している龍司の横顔に向かってつぶやいた。
「さぼってなんかないんだよ。海の音楽を聞いて、自分の悲しみを解放したでしょ。それがさ、音楽につながっていくんだ」
いつの間にか龍司の車に流れていたボサノバの調べに、私はリラックスし始めていた。海岸沿いの道を龍司とドライブすることは、昨日の今頃は思ってもみなかった。ましてや龍司と唇を重ねることなんて、全く想像もしていなかった。
心がつながっている人の体温は、こんなにも安らぐのだと知った。「生き直し」前の私にとって誰かの体温を感じることは、不安を重ねていくことに等しかった。こんなふうにして新しい日は、思い掛けず訪れるものなんだ。心の奥が動き始めて、重いドアが開こうとしている瞬間だった。
「さあ、着いたよ」
駅前にある結婚式場も備えた大きなホテルの入り口だった。龍司は、私をエントランスで降ろすと駐車場に車を停めに行った。待っている間、ロビーに行ってみると白いグランドピアノが置かれているのを見付けた。どこの楽器メーカーのピアノなのか近付いてみると、シゲルカワイとローマ字で刻印されていた。まるみのある柔らかい美しい音色のするピアノで、私は大好きだった。
龍司が駐車場から戻って来た。白いワイシャツの上に紺色のジャケットを羽織った龍司はさっきより大人びて見えた。
「ここのピアノは予約をすると誰でも弾けるんだよ。今日は、僕が一時間予約をしてあるから今から、弾いてごらんよ」
「えっ。私がこのピアノを、今から弾けるの? 嬉しい、ありがとう。龍司くんも弾いてみる?」
「僕は、遠慮しておくよ」
私は、持っていたカバンを、ピアノのそばのソファに置いて、ピアノの前に座った。
「今日見た海の風景や波の音を思い出してごらん」
目を閉じると、海の風景と共に龍司の優しいキスを思い出した。私にとって、ファーストキスだった。あたたかくて、柔らかくて、優しさに包まれたようなキスが、今も私の心の奥底の悲しみを溶かして、癒してくれている。
迷わずショパン夜想曲十三番を弾くことにした。両手を膝の上に置いて、ゆっくりと深呼吸をした。全ての感情を一音、一音に込めてピアノを弾きたいと願う。今の私は、花田萌歌ではなく、ショパンそのものだ。心を無にすればするほど、ショパンの感情が入り込んでくる。
第一部の速度記号はレント「遅く、ゆるやかに」であるが、ゆるやかとはほど遠いほどの緊張感をもって弾かなくてはならない。第一音目、第二音目を慎重に鳴らした。ロビーに響き渡る感覚がたまらない。この曲を作曲した頃、ショパンとサンドの仲は冷え切ってしまっていたとも言われており、この悲し気なメロディーは、ショパンの心象を表している。狂おしいほどの愛情をもっているにも関わらず、その愛情の一片も相手に届くことはない。その絶望たるや、どんなにか大きかったであろう。私の心は張り裂けそうな悲しみを解放していく。そう、ショパンも誰かにこの思いを知って欲しかったに違いない。
第二部は、ショパンの好きなバッハをオマージュして作られたと言われている。讃美歌のようなコラールは、和音でありながら旋律を浮かび上がらせる。優美で荘厳な旋律が際立つよう、できるだけ、ゆったりとしたイメージをしながら弾いた。第一部で、狂気に陥りそうだった自分を、どうにか支えることができているのはこの美しいメロディーのおかげではないだろうか?
私は涙が出そうだった。私ではなくショパンが涙したいのかもしれなかった。後半の左手の和音は、何度も何度も繰り返すほどに力強くなっていく。それは荒ぶる感情を抑えようとしたいのか、それとも激しさを全てぶちまけて世の中に知らしめたいのか、ショパンにしか分からない。私は、そこをその時々の感情で弾くようにしていた。
第三部は、最も激しいパートである。そこに二倍速の部分がある。三連符の和音で二倍速になった主題が戻ってくる。ここは、感情を露わにして、ショパンの男性的な情熱を伝えたい。感情を思い切り解き放って弾いてみた。美しい主旋律は、ショパンの感情のようにゆらぎをもって魅せたいところだ。この曲は、楽譜や拍子の中に収まる曲ではない。ショパンの魂の叫びを、私のピアノ演奏に乗せて届けるだけ。そう私は、ショパンの代弁者なのだから・・・・・・。彼の魂は、時を超えてまだこの世に存在しているのだ。ジョルジュ・サンドの顔は、もう浮かんでは来なかった。最後の和音を重々しく重ねた。鎮魂のための和音なのであろう。
演奏が終わると、ロビーにいたホテル客から、大きな大きな拍手が湧いた。
「萌ちゃん、今の演奏、素晴らしかった。力強い音で、感情を開放している感じがした」
龍司と私は、ロビーのカフェ席に移動した。
「龍司くん、私いつもより、第三部がうまく演奏できた気がするわ。だって、二倍速のところで、指が絡まる気がしなかった。それに『自由』を感じることができた」
「そうだね。モカちゃん。悲しみをふっきれた感じの演奏だったね」
「コンクールセミファイナルまであと二か月、ファイナルまであと五か月あれば、仕上がりそうよ」
入賞するとCDデビューのチャンスや海外留学の特典がある。私は、龍司にもコンクールへの出場を促してみた。でも彼は断った。体力が心配だというのだ。龍司の演奏は、繊細で緻密な上に、ダイナミックで力強く、聞く人の心を捉えて離さない何かがあるというのに・・・・・・。
それから、龍司は毎日のように私のピアノレッスンを自主的に引き受けてくれた。毎日のように楽器練習室を二人で訪ね、一人だったらできないくらいの時間を練習に費やした。指のトレーニング教本「ハノン」を弾く時には、持参したアコースティックベースで、アドリブでベースラインを付けてくれてた。ベースラインが入るだけで、練習曲はこんなにも生き生きするのだ! 新しい発見だった。
そんな龍司も、コンクールの曲練習となると真剣な表情となった。
「ここは悲しみと喜びを対比して表現できるように、喜びをもう少し表した方がいいんじゃないかな?」
「うん、もう一回弾いてみる」
「さっきより表現が広がったと思うよ。でも、このメロディのここの部分、もっと歌える?」
その度に、私は龍司の言葉の意図を演奏に反映させようと工夫して演奏をした。何パターンも演奏して聞かせた。龍司がいいと感じるものは、私も一番納得する演奏だった。龍司は、私の演奏を自分の演奏に近づけようとしているのではなかった。私に合った演奏方法を一緒に模索してくれているのが伝わってきた。
そして、一番良いと思う演奏を、いつでも再現できるようにさらに練習を重ねていった。
彼は時々体調を崩し、楽器練習室に来ることができない日もあった。お腹の調子を崩しやすいと言っていた。でも彼に会えない日はなかった。私のアパートで一緒に暮らすようになったからだ。
初めて彼が私のアパートに朝までいた日は、田村教授のレッスンで私があまりにも落ち込んでしまった日だった。
私を元気付けようと、ドライカレーとサラダを作ってくれた。龍司のドライカレーは、辛さの中にもフルーツの甘みを感じられた。トッピングとしてゆで卵が添えられていた。一緒に食べながら、田村教授のレッスン対策についてあれこれと作を練った。だいたい今日はこんな質問がくるかなってことを予め一緒に予測して参加してみたらいいんじゃないかという案に落ち着いた。龍司は私の演奏をよく理解しているから「田村教授が次にどんな鋭い質問を投げかけてきそうか分かる」と占い師みたいなことを言っていた。
食べ終わると、龍司は高校時代の話をしてくれた。高校時代にはバンドを組んでいてベースを担当していたのだという。
「ベースってね、メロディラインを弾くことはないんだけど、その演奏全体の要になる楽器でね、みんなの影で役立っているところが僕は好きなんだ」
「龍司くん、私は同じ曲を繰り返し聞く癖があるんだけど、繰り返し聞いていると最後にいいなって思うのはベースなんだよね。ベースラインは裏テーマみたいになっていて、主旋律を引き立ててくれているのが分かる」
「そう? 僕が思っていることと同じだ。萌ちゃん、ありがとう」
言い終わらないうちに龍司の唇が、私の唇と重なった。一緒にいるから考え方が似てきているのか、元々似たような考えだったからお互いに惹かれ合ったのか、分からなかった。
だた龍司の唇が熱を帯びていることは確かだった。龍司の繊細な手が私の体に触れた。人の体温は、こんなにも温かくて優しいものなのだと初めて知った。彼の手が触れただけで、私の体は震えた。龍司が演奏するコントラバスのように私の体全てが共鳴した。自分の中に女性としての歓びのようなものがあることに気付かされたのだ。
もう龍司のいない生活は考えられないくらい、私の生活の一部となっていった。日常の様々な場面に煌めきを見付けることが得意な龍司は、そのひとつ、ひとつを私に伝えてくれた。そういう日常に隠れている煌めきを一緒に見付けていくことこそが、私の演奏の幅を広げてくれるように感じていた。「私の心を悲しみから、解き放ちたかった」という龍司の意図していることが伝わってくる。今、私の心は悲しみよりも、歓びで満たされている。
私の演奏も変化しているのを感じる。きっちりとお行儀よく箱に入った演奏から、自由な世界に放たれ、音符が無限に広がっていくイメージを感じるようになった。
満たされた時間を一日、一日、ていねいに重ねていった。その満たされた時間は、私の人生や、私の演奏を豊かにしてくれた。龍司の毎日も豊かになっていて欲しいと願った。
一緒に練習を始めてから、二か月が経とうとしていた。私は、ピアノコンクールセミファイナルに出場した。自分の出番の前は、これまでにないくらい落ち着いていた。もう、甘いシロップに頼らなくても私はどんな時にも平静を保てるようになっていた。龍司は客席から見守ってくれていた。
セミファイナルでは、日頃、龍司と練習を重ねた成果を発揮することができた。長い練習時間に比べたら、本番なんてあっとういう間なのだ。その一瞬に感情を込め、感情を解き放つことができた。私の演奏を通して、ショパンの魂は、きっと聞く人に届いたに違いない。
それから二週間後の梅雨の日の朝、ピアノコンクールセミファイナル通過のお知らせが携帯に届いた。
「龍司くんのおかげで、セミファイナル通過したわ」
「やったね!」
「ありがとう!」
「今夜は、そのお祝いをしよう!」
夕食では二人の好きなパスタを一緒に作り、お祝いがある度に少しずつグラスを傾けているワインで乾杯をすることにした。そして私たちは、その日からファイナルに向けての練習を始めた。
セミファイナルに残っている人達は、誰がファイナルで優勝してもおかしくないくらいの実力者たちである。その中で、どう違いを出すか? どう伝えたらいいか? とても悩ましかった。
個性とは、演出できるものではなく、滲み出る生き方や、生命力のようなものなのだ。小手先の技術では、審査を通り優勝することはできない。技術は全ての参加者に備わっているとしたら、熱量が聞く人にどのくらいダイレクトに伝わるかどうかにかかっているようにも思えた。熱量の加減、それはショパンの魂との駆け引きなのかもしれなかった。
演奏だけではなく「私らしさを磨く」必要があった。龍司と二人で日々を慈しみながら暮らし、ピアノを弾いて、演奏の僅かなな違いに耳を澄ました。ここまで来ると、何を伝えたいかよりも、何が求められているのかに意識が向かってしまい、自分の演奏の最終地点がだんだん分からなくなってしまった。
「今の演奏、さっきのと比べてどっちが良かった?」
龍司に聞いても、考え込んでしまう時が増えてきた。龍司も、何かに迷い始めているのかもしれなかった。それとも・・・・・・。