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【小説】「生き直し ~私を探す旅~」 第二話


 こうして私は『人生最期のトンネル』に出発することになった。私自身の人生を取り戻すため『生き直し』をしにいくのだ。もう、怖くなんかなかった。私は、自分の考えを思うように人に伝えることができず、人と距離を空けてしまう傾向にある。人前で話すことも、友達を作ることも苦手だ。「これまで私が自分の人生において感じてきた違和感は、何だったのだろうか?」それを見付けに行くのではないだろうかとさえ感じていた。

 洞窟のような入口から『人生最期のトンネル』に一歩、足を踏み入れたところで、私の体はふわりと宙に浮かんだ。宙に浮かんでいるはずなのに、転びそうだ。宙に浮かんだまま、歩き出していた。そういえば、コンシェルジュの沖田さんが「できるだけ心をフラットに」と言っていた。「心をフラットに、穏やかにってどういうこと?」初めて、宙に浮かんで、ドキドキしそうだったから他のことを考えてみた。心が穏やかになる曲といえば、バッハ。G線上のアリアのピアノ演奏を思い浮かべてみる。弦楽器で演奏するイメージが強いのかもしれない。でも、ピアノソロの演奏は静かな美しさがある。

 G線上のアリアの規則正しく拍を刻む伴奏に合わせて、呼吸が自然に整ってきた。体がだんだんゆっくりと、横に倒れ始めた。そして最終的には、金曜ロードショーで見たことがある、あの空飛ぶヒーローのようなスタイルで移動できるようになっていた。   
 この空間には、意識だけで訪れているとは言え、生き直しのため過去の自分に潜入する時以外は、体の感覚はあるのだ。透明色の体があるのと変わらない。バランスを取る必要があるようだった。

 そういえば、さっきから私の胸のポケットがごそごそ動いてこそばゆい。「何か入れていたっけ?」と思い、ポケットを覗いた瞬間、くりっとしたまるい目が印象的な小さなシマリスと目が合った。
「もしかして、ティムなの?」
 するとティムは、かわいらしい外見とは裏腹に、大人っぽい低い声で、私の脳内に話し掛けてきた。あまりにも素敵な男性の声が、私の頭の中に響いた。声との距離感が近すぎて思わず赤面した。
「はい、ぼくがティムです。萌歌もえかさん、君と一緒に行くことを決めていたんだ」
「一緒に行ってくれるのですか? うれしいです。一人だと寂しすぎて。でも、どうして私と一緒に行くって決めてくれたのでしょう?」
「それはね、僕は、君にまだ死んで欲しくないんだ」

 そう言うとティムはポケットから出てきて、私の肩の上に座った。
「なぜかって、ぼくはいつも君の弾くピアノの音色を聞いていたからなんだ。とても、伝わってきたんだ。君の感情がぼくに」
「私の感情・・・・・・?」
「そう、君の感情は、いつも『助けて』と呼び掛けてきたんだ」
 私は動揺した。知らない間に自分の演奏が聞かれていて、しかも、私の感情がティムに「助けて」とメッセージを送っていただなんて。思わず、宙に浮かんだままバランスを崩した。すると、ティムも私の肩から落ちて落下した。トンネルの底に落ちる寸前に、自分の力で宙に浮かび上がった。
「だまってこっそりピアノの演奏を聞くなんて、ひどいわ」
「だって、ぼくが突然出て行ったら驚くでしょ。きっと」
「それも、そうね。じゃあ、私が最近練習していた曲は何か知ってる?」
「もちろんだよ。ショパン夜想曲十三番だね。メロディーが切なすぎて、余計に胸が張り裂けそうだったよ」
「あの曲は、ショパンが愛するジョルジュ・サンドに贈った曲なのよ。きっと。ショパンは、サンドのことを深く深く愛していたのね」
 私とティムは、会話をしながら少しずつ距離を縮めていった。話し合い手ができて安堵した。
「見て、ティム、私が昔住んでいた家よ」
 『人生最期のトンネル』の中は、まるでプロジェクションマッピングの鮮やかな映像のように、トンネルの壁に様々なものが映し出されていった。音や話し声までも聞こえてくる。
「萌ちゃん、『ここ』という所で自分の心の声に忠実にその瞬間を『生き直す』んだ」
「分かったわ。自分の心の声を聞くのね」

 私とティムは、昔住んでいた家の中を覗いていた。
「あ、あれは赤ちゃんの頃の私」
 白いおくるみにくるまれて母親が大切そうに抱いている。母が何か語り掛けている。
「あなたは、私とパパのところに生まれてきてくれた。歌や音楽の才能が萌えるようにという願いを込めて、萌歌もえか。海外でも活躍できる子に育てるつもりよ」
 名前の由来を納得しながら聞いていると、今度は、父親が部屋に入って来た。
「萌ちゃん、今日もかわいいね。ねえ、ママ、本当にかわいい子を産んでくれてありがとう」
「改めて言われると照れちゃうわね」
 あれ? なんだか私が知っている父と母の雰囲気と違う。私が知っている父と母は、毎日、毎日けんかばかりして、仲の悪い夫婦だった。こんなふうに穏やかに会話をしているところは、見たこともなかった。しかし今、仲の良い時代もあったと知って驚いている。
「萌ちゃんの、お父さんとお母さんは、仲がいいんだね」
「そんなことなかったのよ。私が知っている父と母は、あんなに仲がよくなかったわ。だって、いつも大げんかしたり、口を利かなかったりしていたから」
「ふうん。じゃあ、どこかで、二人の関係が変化したんだね」
「そうね、きっと」
「さあ萌ちゃん、行こう。タイムリミットを守らないと死んでしまうから」
 いつの間にか、ティムが、私のことを「萌ちゃん」って呼び始めているのに気付いた。
「私、今は本当に死にたくない」
「じゃあ、急ごう。三日と三時間三分以内に戻らないと!」
 ティムはそういうと、スピードを上げて進んで行った。私もその後を必死で付いて行った。

 しばらく進むと、幼稚園の頃の私がいた。その場所は、家ではなく、かつて通っていたピアノ教室だった。私は、ピアノ教室の練習室で、その当時練習していた「W・ギロックの雨の日の噴水」を何度も何度も弾いていた。このピアノ教室は、私が当時挑戦していたピアノコンクールの審査員であり、音大講師でもある新進気鋭の三十代の男性が教えている評判の教室だった。

 一緒にいるはずの母の姿が見えなかった。上からでは、分からなかったので、少し高度を下げてピアノ教室に近づいてみた。 

 母は、広いレッスン教室の中にいた。ピアノを弾いている。そういえば、母もレッスンを受けていたことがあった。そして、ピアノを弾いている母の後ろから、ピアノの講師が母の肩に手を載せて顔を寄せた。ピアノを弾く手が止まった。すると、ピアノの講師は、母の腰に手を回し、一瞬にして抱き寄せて長いキスをした。母もその講師の首筋に腕を絡めていた。
「ねえ、あなた。今度のコンクールで優勝するには、萌歌はどこを、どうしたらいいかしらね」
「そんな話、今するものじゃあないよ。きっと、なんとかしてあげるから」
 とささやいて、その講師は母の言葉を遮るように、もう一度キスをした。

 その時だった。レッスン教室のドアが、小さな音を立てて少し開いた。当時の幼い頃の私だ。練習室での、一人の時間に飽きてしまったのだろう。母とピアノ講師が、まるで愛し合っている恋人のように重なって一緒にいる姿を見付け、動けなくなった。幼い私は、その光景が焼き付いて忘れられなくなった。二人と小さな私の姿は、暗闇に吸い込まれるように見えなくなった。

 私は、頭の中が真っ白になった。そして、幼い頃の消し去りたい記憶が、再び鮮明になった。そういえば、ピアノ教室があった日は、父と母がけんかをしていることが多かった。父は、何か勘づいていたのだろうか。それとも、勘づいていなくとも、心が落ち着かないような何かを察知したのだろうか。私の胸の中に、恋多き女、ジョルジュ・サンドの顔が浮かんで消えた。次の瞬間、母の顔が浮かんだ。

 ティムは、さっきから黙ったままだった。私の気持ちは、緑青色ろくしょういろの沼のように、深く深く沈んでいく。そっとしておいてくれるところが心地よかった。出会ったばかりのティムは、話し合い手として信頼できる存在だ。
「次に行こう」
 私はティムに、小さくうなずいた。



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