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停滞が怖い

私は私が楽しそうに生きているように見える。大阪行って、好きな絵描きの絵を見て、いっぱいグッズ買って、名古屋行って、整形して、爪を可愛くして、色彩検定にほぼ満点で合格して公式に成績優秀者って褒められて、ご褒美に親に試験代の一万円を返還してもらえて、マクド食べて、ゲームして、本音を話せる友達もいて、生きてる。今日も生きている。

人生を毎月、毎週、いや毎日、進めていかなければならない。停滞が怖い。何をするかは自分で勝手に決められるから、今の生活は確かに楽しいのかもしれない。でも、それ以上にたくさんの不安と闘って生きている。私にとって、楽しみは不安との闘いの上にしか成り立たない。いくら楽しくても、大なり小なり怖さが付きまとうのだ。それに疲れてしまった。楽しいことでさえ、したくなくなってしまった。一ヶ月くらい頑張ったあとは、一ヶ月くらい限界になる。これを繰り返している。
バイタリティが年々目減りしているのをひしひしと感じる。高校に行けないと泣いていた頃は人生の軸を見失っていなかったのである意味まだ良かったのかもしれない。

ちょっと前まで大人になったらヒーローになるつもりだったから、今の生活に生き甲斐を見出すのは難しい。絶対こんなはずじゃなかった。
とことん迷惑をかけて私が可哀想だということを改めて周囲に知らしめたい。メンヘラをやめるのにも、疲れた。大人しく一人でしくしく泣いていれば誰にも迷惑をかけない。母はそれを望んでいる。でも、ネガティブな自分と認知の歪んだ自分とを対話させ続けたところでどんどん深みにはまるだけなのだ。

今年の一月、大したところじゃないけど、一般的に見ても平均以下のところだけど、自分の中では好印象な大学に受かったのがとても嬉しかった。行きたかった。心から望む進路に行けない、行かない自分が悲しくて虚しくて情けなくて悔しくて死にたくってしょうがない。高校の時みたいにまたうまく通えなくなるのかもしれないけれど、そうなったら何がまずいのだろうか。
一年療養したら受験し直して今度こそ行くつもりだったけど、母とそう約束したけど、受験してから半年、一年の半分が過ぎて、さて、私の体調に変化はあった?
あんなに期待していたのに、我慢したのに、私にも母にも裏切られた気分だ。

通信制大学という選択肢はしっくり来るような来ないような感じだ。学ぶ内容にはそこまで興味無いのに、編入と学歴のために行くだなんて通信制高校の頃のようなことを繰り返しているだけなのではないか。計画としては賢く、合理的だけど、本意に背いたことをしたらまた心の負債を増やしてしまうことになりかねないのではないか。高校ほど肌に合わない感じはしないとしても。
でもやはり小中高の「受験のためのカリキュラム通りの授業」といった感じではないと思うし、履修科目の融通も効くので、入ってみれば実は面白くて通信制大学を続けるちゃんとした意義が発生するかもしれないという期待値はある。

生き様が格好良い人に憧れる。健康でさえあれば私もそうなれるという自信がある。知識にも経験にももっと貪欲でいたい。それが許されないのなら私は魂をぐしゃっと滅ぼしていなくなりたい。不遇だから。

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