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小説『鉛色のカエル』

あらすじ
2000年代初頭の横浜・舘林・下北沢を舞台に、バンドで成功することを夢見る横浜出身の市川令次と、三人の兄を持ち部活を辞めて奔放に生きる舘林出身のタガワキョウの関係を中心に二人がそれぞれ抱える劣等感を描いています。
 劣等感の強い令次はバンドで成功することを夢見ていますが、ある晩に出会ったバンド『モノプラン』を見て、自身の才能の無さを感じます。一方キョウは陸上部の前顧問であった藤原と関係を持ったことで部活を辞め、そのことで目標を失っています。
 ある晩の暴力事件がきっかけで令次はバンド活動を離れて以来精神を病み、キョウからも離れて、結婚もしましたが、現在妻・多香美との関係は離婚間際でした。

1 セラピー


それではひろちゃんについてお話ししましょう。ひろちゃんは私よりひとつ年下の友達でした。ひろちゃんは左利きで絵が上手なんです。私もひろちゃんとたくさんお絵描きをしました。ひろちゃんは昆虫やゴジラや悟空、キヨハラくんやウルトラマンなんかを描くんですけれど、ときどき新しいものを描くんですね。私は圧倒されました。

「このポパイみたいにムキムキで、骨つき肉を食べてる、顔の大きなガイジンは誰なの?」と私。

「パポイスンキーだよ」とひろちゃん。

 パポイスンキーの大きなブーツの下に、ちゃんと(国:ロシア)と描いてありましたし、大きな骨つき肉を勇ましくかじっていたので私はパポイスンキーなのだとわかりました。

 夏休みの午前中、いつもそうしてるので私はひろちゃんちに行きました。家は隣です。掃き出し窓の網戸の向こう、ひろちゃんは扇風機にあたって、ちゃぶ台に向かって静かに絵を描いているところでした。

「ひーろーちゃん、あーそーぼ」と私。

「いーいーよ」と言ってこっちを向くひろちゃん。

 ひろちゃんはちょうど新しい怪獣を描いたところでした。ウルトラマンもゴジラもたたかったことのないまったく新しい怪獣です。名前は。

「メカガメラだよ」と、ひろちゃんは教えてくれました。私は圧倒されていました。身体が機械でできたガメラなんて見たことがなかったんですね。驚きました。

 ひとしきりメカガメラについてひろちゃんから学んだあと、私たちはカマキリをつかまえに階段に行きました。階段の横には草むらがあって、オオカマキリやオンブバッタがよくいるんです。足を踏み入れればキチキチが跳びます。

 草むらをかきわけている際のひろちゃんは昆虫博士でした。エンマコオロギ、ヒシバッタ、ツチバッタが跳ねてキチキチは逃げていく。アゲハチョウ、より美しいアオスジアゲハ、ときにはアマガエルも見つけました。ゴマダラカミキリ、桑の木にはよくクワカミキリがいました。

 お腹の空いた外遊びに桑の実はなによりのおやつだった。

 そしてカマキリです。昆虫について知るべきことはみんなひろちゃんが教えてくれました。それらの知識を披露して私も学校で昆虫博士と呼ばれたことがあったのですが、それは間違いですよね。

「いた! オオカマ! チャイロだ!」

「チャイロ!」

 私は興奮しました。チャイロは普通緑色をしているカマキリに対して全身が茶色くてカッコイイカマキリなんです。コカマキリではありません。チャイロです。

 鋭い刃のような草むらは背が高い、私とひろちゃんは背が低かった、ときの声に驚いたチャイロはカッコイイお尻をこちらに向けてぐんぐん山奥へ逃げていきます。

「いったよ! そっち!」

「おりゃ!」

 私はビームサーベルを降り下ろすガンダムよりずっと素早く虫取り網を降り下ろしました。

 少々の草の抵抗は力を込めて押し潰せ! 地面までえ!

「やった。入ってる。チャイロ!」

「チャイロ!」

 道路まで戻って、虫取り網に引っかかったチャイロを慎重に助けだして、まずはアスファルトのステージで品評会です。

「目が潰れてるね。片目の半ジャックだ」

「本当だ。半ジャックだね。れいくんが強くやりすぎたせいだね」

「いや、ひろちゃんのせいだよ」

 カマキリの目は夜に黒くなりますが、弱ってしまったり、潰れたりしても黒くなるんです。昼日中に目が黒くなったカマキリが元気になったところを私は見たことがない。

「ひろー! れいくんもー! お昼よー! ラーメン作るから、おいでー」

 ひろちゃんのお母さんはハム入りラーメンを作ります。私はひろちゃんちで一緒にお昼をよく食べた。ひろちゃんもうちでお昼をよく食べた。ひろちゃんは私の初めての友達です。それはまあ「虹のような青空」とか「青空のような虹」くらい素敵なことでした。

 ひろちゃんの家の本棚は整頓されて、コロコロ、ドラえもん、ドラゴンボール、キヨハラくん、ゲームボーイ探検隊もあった。ごちそうさまのあと、ひろちゃんは本棚の脇から、慎重に、丁寧な大人のような手つきで、旧ザクのプラモの空箱を出して見せました。私は本棚からプラモの箱というアイディアにもわくわくしたけど、中身はもっと凄まじいものでした。

「新聞の四コマだよ」

 箱の中から出てきた秘伝の巻物、隠されたへミングウェイペーパーは新聞の端に載ってる理解のしようがない四コマを四日分もホチキスで留めたものだったのです。

 四日。どれほど長かったことか。

 ひろちゃんはもう世界との対峙を始めていたんですね。私は圧倒されていました。

2 再会


 なんでも好きなことばかり考えてきたせいなのか、そうではないと立ってすらいられなくなった。三番目のお風呂や四畳半の和室、メモだらけの冷蔵庫やプロ野球中継に僕は自分を見つけることが出来なくて不安で堪らなかった。だけど空は落ちてこないし、海は乾かないとわかる頃、とうに彼女は傍を離れて、本当に見えないところへ過ぎ去っていた。


 相変わらず余裕と焦燥の混在する下北沢の歩幅に合わせて駅から五分、待ち合わせの店で「おー市川くん、久しぶり。近藤も久しぶりだね。奥の座敷、入って」と、居酒屋の店員よろしく僕と近藤を出迎えて案内してくれたのは田中だった。田中は楽器や機材に関する知識に長けていて、安くて良質なケーブルのことや、評判の良いコンデンサーマイクなど録音に関する品に特に詳細で、当時は僕もお世話になった。

「市川くん」「市川さん」「おー」と、声を出して反応したのは場にいた男三人で、他の十名くらいは僕のことなど知らぬ顔でジョッキビールやハイボールを囲んでいた。

「はい、かけつけ三杯」と言ってビールを僕に寄越したのが海城だった。顔の広い近藤が嘘くさいハグを一人一人と順番にしている間、僕は海城の隣に座った。

「市川くん、家でも飲むの?」

「のーむーよ? うん、のむのむ。ウィスキーだけど。海城くんは?」

「ウィスキー? 渋いね。僕は飲まない。酔うとなにもできなくなるでしょ」

 そうか? そうかな? まーそうか、と思って僕はシャツの胸ポケットからタバコとライターを取り出してテーブルに置いた。

「最近、アイコス増えたよね。うちの社員もみんなアイコスだよ。市川くんは紙巻派なの? やっぱ違う?」

「そーおーだーね。うん、ていうかアイコス高いし、別にいいや。海城くんは?」

「やめたよ。タバコ。もう結構経つよ。体に良くないし、思い切って」

 うん。

「はーい、やきとりー。まわしてまわしてー」と、声を出してよく働く田中の手から、見たことのない女性、顔だけは知ってる男、対バンで観たことのあるバンドのギターの男の手を伝わって僕と海城の前にも、ねぎま、レバ、もものタレが二本ずつ並んだ。

「市川くん、一味ふる? とろうか? 飲み物は? ハイボールでいい?」

「ありがとう。レバーにはかけないで。ごめん、じゃあハイボールで。海城くんは?」これ結構うまいよ、と言ってやきとりの皿を少し海城側に僕は寄せた。

「いや、僕はいらない。大丈夫」

 ああ、そうか。


 市川くん。本当に久しぶりだね。元気だった?

 元気だよ。わかんない。まー元気だね。

 なにそれ。曖昧だね。まー色々あるよね。この歳になると。そういえば、今日はクマさん達は来れないの?

 いや、俺あいつらと全然連絡とってないからわかんないんだ。まあ生きてるとは思うけどね、はは。

 いやいや笑えないよ、この歳になると、それすら。

 そうかな。いやいやそれは早いでしょ。死ぬにはまだ早いよ。けど本当に知らないんだ。

 そっか・・・ まあ色々あったからね。今となってはいい思い出だよね。

 え? あー! 全然よくはないけど、記憶には残ったね。記録にも残ってるかも。

 はっはっは。だけどさ、だけど市川くん、音楽は? 最近ギター触ってる? 

 いや、全然だね。たまになんだけど、ほんとたまーにフェイクプラスティックとかハウトゥディサピアとか簡単なの弾いてぼーっと呑んだりはする。

 おー、あー懐かしいね。キッドAからもう十五年以上経ってるんだよ? 信じられないよね。

 本当に。考えたくないよ。いや、わかんない、どうだろ。まあこれでいいのかも。

 現状維持が大事だしね。健康第一。

 いや、そうじゃなくて。あのさ、海城くんはさ、一回デビューして、すぐ辞めたでしょ? あれは、ほら、なんでだっけ?

 あー、だからそれは・・・ うーん、やっぱり合わなかったってのはあるよね、レーベルと。それと初めはライブの度に成長が感じられていたのに、それが止まった気がした、ってのもあるかな。

 あーなるほどね。成長が実感できなくなるのは辛いよね。すごいわかる。なんだかんださ、苦悩するじゃん。バンドやってると、っていうか多分、夢見てると絶対苦悩するよね。

 するする。日々是自問自答です。

 そーそー。でさ、あの頃のそういう苦悩って、もう本当に絶望がすぐ後ろにあって、毎日毎日張り詰めててさ、音楽も義務的に聴いたり、俺はもう、そういうの、ちょっと嫌なんだよね。

 それは、やっぱりあんなことがあったから?

 え? あ、いや・・・ こらこら、もうそれは言わないでよ。そうじゃなくて。

 ごめんごめん。わかるよ、すっごいわかるよ。市川くんは特に張り詰めてたし、メジャー志向だったもんね。僕はたまたまデビューできたけど、市川くんだったらどうなってたんだろうね。

 うん。超羨ましいよ。そういう、形を残せたってことが。俺なんか、さ。まあ一応、さ、最後に作ったアルバムは気に入ってるけど。

 あーマイスペースで聴いたよ。マイスペースも懐かしいね。かなり様子が変わったみたいだけど。そういえば市川くん、フェイスブックやめちゃったの?

 俺フェイスブック嫌いなんだ。リア充自慢ブログでしょ? あれって。俺自慢するようなこと、なんもないから。

 いや、市川くん、あれはビジネスツールだよ。あれ? 市川くんだって、会社自営でしょ? やったほうがいいよ? 仕事は順調なの? 工務店さんだよね。

 え? 仕事? 普通だよ。ただなんか、資格とかの勉強はずっとしてるよ。

 建築士? 意識高いね。

 いやいやそうでもないよ。ていうか音楽さ、音楽っていうかさ、海城くんはさ、なんか時々、無性に曲作りたくなるっていうか、バンドやりてーみたいにならないの? なんか、ぶわーって頭にたまらない?

 いやー、もう子供いるからね。嫁に怒られちゃうよ。時間もないしね。あ、けどたまにフットサルはやってるよ。

 フットサル? いやそうゆんじゃなくて。

 あ、そういえばこないだ久々にギター弾いたよ。ジャックジョンソン聴いてたら触りたくなって。

 ジャックジョンソン? まじか、サーファーか。

 別に僕はサーファーじゃないけど。いいよー。ゆるーくて。

 だけど思わない? こんなはずじゃなかったのにーとか、こんな仕事やりたくてやってんじゃねーとか、お父さんの会社継いだわけでしょ?

 もう思わないよ。結構幸せだからね。健康と家族平和があれば。まあだけど、次の人生では家族よりバンドを選ぼうと思ってるよ。

 なんじゃそら・・・ 人生に次なんか百パーねえよ。

 え? なに? 大丈夫? 市川くん、疲れてんじゃない? ストレス溜まってる?

 え? あれ? はっはっは。ごめん。大丈夫だよ。

 市川くんは、今でも熱いんだね。本物だね。変わってないよ。


「変わってない? 冗談だべ?」 


3 モノプラン 過去


 キョウが初めて僕らのライブに来たのは二◯◯五年二月十日。僕はキョウの名前を予めゲスト招待枠の名簿に書いてスタッフに手渡した。招待だのゲストだのって、他に言い方ないのかよ、と思ったけれど、僕も下北沢にいる間はミュージシャンだのアーティストだのとすましているのだから仕方がない。僕らはリハーサルを終えるといつも会場に留まって、その日に出演する他のバンドのリハを眺めることにしていた。

 その日はとてもいいバンドがいた。いや、いいだなんて腕を組んで僕が言えるような範疇ではなかった。そのバンドはスリーピース、僕のバンドもスリーピース。一見すると、「経済学概論」の講義を受け終えた学生が教室から出てきたような三人だった。メガネで天然パーマのドラマーはバスドラを踏みながらシンバルの角度やハットの高さを何度も微調整し、こちらもメガネで四角い顔をしたベーシストはベーシストらしからぬほど足元にエフェクターを広げて一つ一つを踏んで確かめる。そのベーシストがピッチシフターを踏み込んだ時、僕は立ち上がった。「ベースでピッチシフターだって」と言って僕がうちのベーシストを見ると彼も立ち上がった。そしてボーカルギターの痩身顎ヒゲの男がジ ャズコーラスのボリュームを右に回し、テレキャスターのボリュームを上げると、トレモロ、ショートディレイ、ロングディレイ、深めのリバーブ、ブースターにワーミーにRATのディストーション、それに逆再生。僕とほとんど同様のセットだ。バンドが鳴らす一通りの音色をPAのスタッフに順に示し「じゃあ、曲でお願いします」と痩身顎ヒゲがマイクにぼそりと言ってイントロのコードが鳴ると、投げられた手榴弾のような彼らの野心と霞ヶ関のオフィスビルのような知性が音の重ね方にはっきりと見えた。

 なにこのバンド? 名前は? なんなんだよ・・・ 白黒計画? なんじゃそら。


 ライブ終演後、僕らはフロアをまわりアンケートの回収をした。自作のアンケート用紙は入場の際に各種フライヤーと共にお客に配られていて、面白いのは内容よりもその用紙を返してくれる際のお客の表情がその日の出来をあらわしていることだった。僕自身すっかり興奮していて、まっすぐにキョウに向っていった。「なんかよかったです」「ありがとう」、「リッケン馬鹿ですね」「馬鹿っておい、けど嬉しいな」あれ、キョウ、どこ? 

 少しく人が帰り去ったあとで、見た顔の男が僕に近づいた。

「観ましたよ。かなり驚きましたよ」と堅苦しい雰囲気の彼。「くるり、レディオヘッド、スウェード、トラヴィスと・・・ テレヴィジョンですか?」

「え? それはさ・・・ まぁ大好きだけど」

「僕と趣味が近くて。なんとなくリハのときから興味沸いてました。打ち上げで話そうと決めていたんです」

 僕らは互いの顔をよく見ながらレディオヘッドの『ピラミッドソング』について意見を交換した。すぐにこの彼がリハで僕らを驚かせたバンドの男だとわかった。ところが、その実僕は何もわかっていなくて、本当に恥ずかしい思いをすることになった。

「海城さん」と呼ぶ声がして僕と彼が同時に振り向くと、青い長袖ポロシャツ姿のキョウが立っていた。

「キョウ!」と僕が言うと「タガワさん!」と彼もほとんど同時に言った。

「ライブ、良かったけど『サイコテラピスト』やって欲しかったです」

 キョウの一言で僕は取り残された。キョウは海城ではなく僕の方を向いて、にんまりとした。

「市川さん」と今度は興奮した楓が僕に近づくと「鬼怒川さん」と声に出した僕をキョウは妙に落ち着いた顔をして覗き込んだ。

「海城くんて言うんだね。俺もリハの時に見てびびったよ。だけどさ、白黒計画だっけ? 変なバンド名だね」二人のスタッフがせわしない様子でマイクケーブルをまとめたり、残された空き缶なんかを片付け始めている。「うちの一個前の出番だったから観れなかったんだ。残念。けど今度観に行くよ。あ、CDある? 白黒計画の」

 三人は黙ってお互いの目を見交わした、かと思うとキョウが突風のように笑い出した。

「シロクロケーカクって、まじウケんだけど」とキョウは大袈裟に手を叩いてよろこび、涙を指で拭った。

 海城は申し訳なさそうに僕を見て、こう言った。

「白黒計画って書いて、モノプランって読むんです」

「まじかよ!」僕の声で会場に残っていた人が一斉にこっちを見た。

「私もなんかおかしいと思いました。一緒にライブやるのに、市川さん知らないって言ってらしたので、モノプランさんのこと」と言って楓は腕時計を見て、フロアをモップ掛けするスタッフを見回した。

 海城は結局声も出さずに微笑んでいたけれど、僕は声に出して何度も彼の音楽を褒めていた。



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