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『鉛色のカエル』11

34 キョウ 過去

キョウを連れて車に戻るとコンビニの目の前で若い男が数人で輪を作って、くだらないことで大笑いしていた。肌触りの良い春先の夜風がキョウの頰を流離い髪を揺らして、その髪をキョウが耳にかけて僕に向かってはにかんだとき、春子は僕から目を逸らした。
「キョウ、身体大丈夫? 気分とか、病院行かなくて平気?」と僕はよれたキョウのTシャツを整えながら尋ねた。
「パンプスどこにあったん?」とキョウが僕に向かって言った。キョウは春子の顔を見ようともしなかった。
「あーウチがめっけたんさ」と春子が言うとキョウは「れいちゃーん、コンビニで茎わかめ買ってきてー」とまるで耳を貸さなかった。
 コンビニでキョウに頼まれた駄菓子を数種類と水と消毒液を買って、僕は先ず春子の家に向かった。僕が車に戻ったとき、キョウは助手席に春子は後部座席にそれぞれ座っていたけど、会話はしていない様子だった。広い国道に出てアクセルを踏み込むとキョウが口を割った。
「れいちゃーん、ウチ腹減ったー」
「うん。なんか食べよう。そうだよ、腹いっぱい食べようよ。腹いっぱい食べてさ。な」
 春子は黙り込んでいた。
「れいちゃーん、ウチ温泉行きたーい。伊香保とか草津とか、行ったことないんさ」
「温泉? おー、行こう行こう。まあ今はちょっとあれだけど、そのうち行こうな」
と僕が言うと、キョウは僕の顔を見て「そのうちって、いつ? いつ行くん?」と目を細めていった。
「れいちゃんメールも無視するし、電話も出ないっしょー? ほんとに行く気あるん? 横浜は? 中華街は? みなとみらいはー? おい」
「わかったよ、わかった。春休み? 卒業旅行みたいなさ。けどご両親が良いって言わないと」
「よーし、やくそくー、けってー。決定だかんね」と言ってよろこぶキョウの横顔を見ると、右瞼の上が少し切れているのがわかった。
「ねーキョウちゃん、ウチ悪いからこの辺で」と、車が市街地に入ったところで春子が切り出すと、それを遮るようにキョウは被せて話し出した。
「ハコー、自転車置いてきて、だいじなん?」
「あー、だいじだいじ。明日お母さんの車で取り行くから」
「自転車? やべ、そっか、ごめん。全然気づかなかった」と僕は言った。
「いえいえ、本当に大丈夫です。心配しないでください」
「ふーん、よかったねーハコ。れいちゃんの車に乗れて」
「キョウちゃん、なんでそんなに怒ってるん?」
「べつ、怒ってないし」と言ってキョウは視線を横に流した。普段のキョウは自分のことをウチとは言わない、春子に対する当てつけだ。疲れていたせいもあって僕はキョウの態度を不快に思った、だからさっきまでキョウの身に起きていた事も忘れてうんざりし始めていた。
「ハコー、わりいんね。れいちゃん、あたしんだから」
「もういいかげんにしろよ!」
「なん? れいちゃん、あたしらまだ中学生よ? 中学生には中学生の現実があるんさ」
 僕はなんとなく覚えていた春子の家の場所をすっかり忘れたフリをして、キョウに道を尋ねながら運転をした。自転車二台で笑っていた踏切を渡って、犬の吠える屋敷の門の前を通り過ぎるとしばらくして、春子の家が近づいた。勝手口横のキッチン窓の明かりがついていて、春子の親が娘の遅い帰りを待っているのだと思った。
「キョウちゃん、卒業式来る、よね?」と春子は車から降りようとせずに話し始めた。
「一応ねー。まあ行かなくてもあれだけど、行くよ」とキョウは言った。
「うん。わかった」とだけ言って春子は車のドアを開けると、降りる間際に僕の顔を見て、そのまま表情を変えずに降りていった。
 春子が玄関ドアの中に入るのを見送ってから車を出すと、キョウは深いため息をついた。顔をしかめながらしきりに座り方を変えるのは身体のどこかが痛むからなのだろう。「大丈夫? もうすぐ着くから」と僕が言うと「次の角で右」とキョウは道案内を続けた。
「ハコはユリと同じ高校行くんさ。あの門のところ左」とキョウが言うと、僕はキョウが家に帰りたくないのだと気付いた、キョウの家の方向は僕にもわかる。
「そっか、もう卒業だもんな。キョウは太田だっけ?」
「あたしはわかんない。タガワ家ってパパ以外全員中卒だから、そんなん関係ないし。一応さ、せっかく受かったから行こうとは思うけど、れいちゃん、あの田んぼ、電信柱立ってるところから車入れるから、入って」
 周りには何も見つからない、夜空に溶けていくような、深海に沈んでいくような田んぼの暗闇に一台のステーションワゴンがゆっくりと入っていく。農作業用の車両が通れる分だけの畔は狭く、田んぼの中ほどで僕は車を止めた。キョウが顔をしかめたまま身をかがめて、ドアを開けると落ちるように車を降りたので、僕もすぐに続いた。田んぼの上には静かな柔らかい風が抜けていて、僕とキョウだけかと思うと近くでカエルが一匹二匹鳴いた。まだ三月になったばかりだった。
「キョウ」と呼んでも返事がなく、キョウはしゃがみ込んだままだった。
「大丈夫? どこが痛い?」と言って僕はキョウの背中をさすった。キョウの顔を覗くと涙がこぼれているのがわかり、僕は見ぬふりで顔を上げてキョウの肩を抱いた。
「れいちゃん、クマさんのこと怒ってるっしょ?」と言ってキョウは鼻をすすった。
「いや、怒ってないよ。本当に怒ってない。気にはしてるけど」
「あーだめだ。なんか今になって、なんかだめだ。あー」とキョウは溢れる涙を手の甲でしきりに拭いながら言った。そしてまたしばらく黙り込むと「れいちゃん、こわかったよ」と呟いてキョウは小さく震え始めた。
「大丈夫、もう大丈夫」と言ってキョウの頭を撫でると髪が針金のように硬い。
「こわかったよ」ともう一段大きな声で言うとキョウは僕の首元に飛びついて、震えながら叫ぶように泣きだした。僕は届くかわからないキョウの名前を何度も呼びながら、力を込めてキョウを抱きしめた。やがてキョウの涙は「こわかった」「いたかった」から「こわい」「いたい」とより直接的になって、今も目の前に恐怖が近づいてくるような絶叫に変わっていった。
 キョウの肩越しに黒々と深い夜空を見上げると、名前のわからない無数の星々が、よく見ていると青や黄色やオレンジの、声のない明滅を繰り返していた。間もなくしてキョウの叫びが衰えると、今では数え切れないほどのカエルがキョウと僕を囲むように鳴いていることに気がついた。サラウンドで鳴り響く顔の見えないカエルたちの合唱に耳を澄ますとキョウはすとんと泣き止んで、僕に空を見るように濡れたままの目で合図した。キョウを抱いたままもう一度夜空を見上げると星の瞬きに合わせてカエルが鳴いているような、その瞬きが鳴いているような、不思議な陶酔が胸に染み込んできた。しばらく眺めていると星空が降りてきているのか、僕らが浮かび上がっているのかわからなくなった。
 ああ、こんな風な曲がつくれたら最高だろうな、と僕はもうキョウのことを忘れていた。

35 キョウと逸平 過去

桜はまだ咲いていなくて、風が強い日だったのを思い出す。キョウはとかくこの群馬の風を嫌がり、風が吹くたびに「きゃー」とか「ひー」とか大袈裟に騒いで、顔にかかった髪の毛を手早く整えていた。
「れいちゃん、こっちこっち!」学校の近くに車を停めて、おそるおそる正門に近づくと声をかけてくれたのは意外にもキョウの母親だった。キョウのお母さんはジャケットスーツ姿で胸にコサージュなんかをつけて能面のような化粧もしていた。
「なん? 似合わん?」
「はい。全然似合ってないっす」と僕が応えると「ったく。しょーがなかんべー。こんにゃろー」と、かなり強く僕の背中を叩いた。
「お姉ちゃんもやっと卒業。なんやかやあったけど」と言ってお母さんの見つめる先には式典を終えた卒業生たちが校庭の隅でそれぞれ写真を撮ったり、抱き合ったり、手を握り合ったりと同窓の名残に時間をかけて微笑んでいた。
「れーい」と聞き慣れた呼び声と共に駆けてくるのはキョウとヒラメだった。
「おー。二人ともおめでとう」キョウもヒラメも息を切らして肩も笑っている。
「お、ちゃんとスーツ着てきたんか。えらいえらい」と言ってキョウは僕にケータイを渡すと「撮って撮ってー」とヒラメと並んで距離をとった。
 この後、僕はキョウとヒラメと三人で写真を撮ったり、なぜかお母さんと二人で撮ったりとささやかな卒業の喜びを分け合った。本当のところ、僕は春子の晴れ姿も見たいと思っていたし、ナカムラを捕まえて警察へ連絡した方がと考えたり、ひょっとして藤原が来ているんじゃないかと気にもなったけど「おーし。着替えて横浜行くぞー」とキョウが次の春を見つけて跳ねていたので何も言わなかった。
 その日の午後、僕はキョウの一番上の兄に初めて会った。キョウとお母さんを車に乗せて家まで送ると「おーお、なんだあ。はあらへったあ。めしつくってくれえ」と、のたりのたり玄関から出てきたのが逸平だった。
「なーん。くるなら先言えー」と言って少し面倒な顔をしたのはお母さん。
「いっぺー!」と、卒業の喜びに輪をかけて走り出したのはキョウだった。
「なんだあ。どーこ行ってたあ?」
「卒業式よー。今日、卒業式」
「おー。で。あれはだれ?」と言って逸平は僕を指差した。
「あ、すいません。市川と申します。初めまして」
「おー。君かあ、噂のロリコンバンドマンは。いやあどもどもどもども」
「れいちゃん、逸平はやさしいでしょ? いっちばんやさしいんさ」
 逸平はキョウの他の兄達に比べて最も身長が高く、髪はボサボサ。僕が聴かないメタル系のバンドTシャツを着ていて、肌が妙に白かった。全体陸に上がったウミガメのような男で、近づきやすい雰囲気を持っていた。身振り手振りを織り交ぜて懸命に近況を伝えるキョウの話を朗らかに受け止める姿は兄だった。キョウの話は途中なのに、話を聞きながらキョウの瞼に残る傷に触ろうとし、キョウに払われ、触ろうとし、払われ、くすくすと笑う姿がキョウに少し似ていると僕は思った。
「もー、しつこい。聞いてるん?」
「いーや。もうかんなりまえから聞いてない。妹よ。お兄ちゃんは腹が減っている」
「じゃーなんかつくる。れいちゃんも座って待ってて。ママー、きゅうり残ってるー?」と言ってばたばたと框を駆け上がった。
 居間に上がった僕と逸平は二人だけになった。欄間に掛けられた鳩の出ない鳩時計は十二時四十分を指し、埃の被った神棚の榊は茶けて、草津温泉湯もみ柄の暖簾の向こうではキョウとお母さんの気配が音を立て、ちゃぶ台の上にはテレビのリモコン、袋の空いたグミ、板チョコを模した手鏡、矢鱈大きな爪切り、化粧水かなこれは、と。
「おい、青年。君は学歴は?」黙って僕の顔をしげしげと見ていた逸平が言った。
「えっと、一応、大卒なんですけど。全然大したことなくて、通信なんです。僕。だから本当にぜんぜん、バカです」
「ほーお、通信かあ。俺は専卒、音楽の。今いくつだあ?」
「二十五ですけど、今年二十六です、ね。音楽の専門ですか、へーすごい」
「二十六でバンドかあ、チャレンジャーだなあ」と言って逸平はにんまりと腕を組んで大仰に何度も頷いた。「俺は二十五でやめたからなあ」
「なんでやめたんですか? バンド」
「うえ、ひえ、うえ、ひえ」と引き攣るように笑い、逸平は席を立って二階へ上がった、どすんと階下に気配を響かせ、幾許もなく照れ笑いを浮かべてCD-Rを一枚持ってくると、居間の押入れからCDラジカセを取り出し、大きな手でゆっくりとそれを入れて再生を押した。
 地声に近い声で歌う男性ボーカルは伺うまでもなく逸平だとわかる。ギターはパワーコード一点張り、ベースはルート音八分で一本槍、ドラムは三点リズムの一辺倒。そうだとしてもかっこいい曲やバンドはたくさんあるけれど、これはちょっと、コメントに困るなあ、と僕は思った。
「へー。あー、こーいう感じですか。なるほどなるほど。あ、けど今のところいいっすね、あー、はい、はい、なるほどー。あーはっは、うんうん」
「青年。君はいいやつだなあ」
「ほれー冷や汁できたよー。麺たくさん茹でたかんね。お、逸平のへっぽこバンド、ひさびさ聴いてもやっぱへっぽこー」
 冷や汁とは氷とキュウリとゴマがたっぷり浮かんだ味噌仕立てのつけ汁にそうめんを一度沈めて啜るもので、口の中に少し甘い味噌の旨味とミョウガの香りが広がり、キュウリの歯ごたえがまた楽しくて「なにこれ! 超うまいんですけど」
「おい、妹よ。こいつは少しバカか」「かんなりバカよー」「え? まじうまい。なにこれ」「なーんれいちゃん、冷や汁しらなかったん?」「はい、知りませんでした」
 横浜に向かう車の中、この日のために用意したと言ってキョウはリュックからビニール袋に入ったたくさんの駄菓子を取り出した。
「それ、まさか」
「あーねー、って違う。ちゃんと買ったに決まってんでしょー」と言って、前を見て運転する僕の口に何か放り込んだ。
「すっぱ、なんだこれ、梅しばじゃんかよ」

ソング#7

 僕は信じないだろうな 君が子供を抱いてるなんて
 僕は君のドレスの近くにいても ただ白鳥を思い出すだけ
 だからひとりにしないでね
 僕は生きた心地がしない 僕はただ時間を殺したいんだ
 君の可愛い質問や 君の狂った殺し笑いがさ
 だからひとりにしないでね
 多分、愛情は君が恐れたときにあらわれる
 そして愛情を待つことは 
 二つのアイスクリームを持って君が戻るのを待つことにそっくりなんだ
 だからひとりにしないでね

「あたしはこの曲がナマケロちゃんで一番好き」
「けどこれ、キョウの歌じゃないよ」



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