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『鉛色のカエル』12(終わり)

36 キョウ 過去

 横浜みなとみらいは新しい夕暮れを待つのには最適だった。僕とキョウはクイーンズスクエア、ワールドポーターズのほとんどのお店を見て回り、何も買わず、キョウの好奇心が汗をかくまでひたすらに歩き回った。鋼橋の上ですれ違う横浜の人たちは安らかに微笑んで、乾いた潮の香りと濡れたコンクリートの匂いが混じる港ではカモメが飛び上がった。揺らめく水面の春光に片目を閉じたり、跳ねた魚を見つけて声を上げるキョウは穏やかな横浜の時間の中にいた。

「ねえ、キョウはもしも俺がバンドなんかやってなくて、普通のサラリーマンとか普通の生き方してても好きになったと思う?」と僕が尋ねると、キョウは一度ため息をついて、柔らかくはにかんだあとで僕を見た。
「れいちゃん、もうちょい自信持ちな。バンドなんかやんなくても、なにやっててもれいはれいよ。あたしもあたし。れいちゃんも世界が狭いんさ。見てる世界が、生きてる世界が。あたしはもっと広い世界を見たいし、広い世界で笑ってたいんよ。ねぇれいちゃん、あたしはね。普通に結婚して、普通に子供産んで、普通に歳とって、おじいちゃんとおばあちゃんになって、なかよく縁側でお茶とか飲みたいんさ。なんか夢っていったらそんなんよ? あたしは。ミュージシャンとかイラス トレーター、カメラに、画家? 声優? なんかそんなん疲れるんさ。あたしはめんどくさがりだかんね。けどなんかれいちゃんとかハコとか見てると不安になるんさ。あたしはあたしのままでいいのに。なんか夢見て頑張ってないといけないみたいな雰囲気ですしね。ってか死ねーってなるわ。ほんと。あたしの夢は庭付き一戸建てに住んで、好きな人と歳とって縁側でお茶飲むこと。ほんでその日までずっとあたしのままでいたいんさ。笑ってたい」

 キョウは海を見ながら芝に座った。

「あたしはほんと言うと、恋愛とか夢とか、学校も友達もどーでもいんさ。ただ家族が笑ってて、あたしも笑ってて、お腹いっぱいうまいもん食えればいんさ。家族以外、愛とかほんとはないと思うし、なんかそんなんよ」

 そして付け加えるように言った。

「まーけど、今はれいちゃんが一番よ。過ぎ去った過去を過ごすことはできないから、今はれいちゃんが一番だいじ」

 わかるような、わからないような。ただ僕は「今は」とキョウが言ったことで崩れるような寂しさに胸が締め付けられていた。

 大観覧車が回ると、キョウは思い出したようにポーチからカード型のデジタルカメラを取り出した。彼女は鬼怒川楓から借りたというそのカメラで海を撮り、僕に自分を撮らせ、買ったばかりだというスニーカーを撮り、僕は撮らなかった。キョウの幸福はときどき溢れてきて、変な顔をしたり、妙な声をだしたり、歌を口ずさんだりと落ち着かなかった。あの星空の夜に僕とキョウは心臓を寄せ合うことで正気を保ち、車の中で何度か安心を確認した。十五歳になったばかりのキョウにとってあの日から僕の存在や横浜がどのように深い意味を持ったことか計り知れない。キョウが見届けた横浜は、十年を経た今でも僕の目に映ることはなく、微かな潮の香りの中に掴めずに消えてしまう。

 夕食は元町で本格的なハンバーグを出す店に入った。落ち着いた店内の雰囲気に緊張したキョウの目が泳ぎまくっていてそれをからかうと、キョウは顔を赤くして店を出るまで口をきかなくなった。外に出ると夜の空気が意外に暖かく、早々と移ろいゆく季節に気づいて僕はまた胸が苦しくなった。

「れいちゃん、あたし高校いったらバイトするよ。服欲しいし、えいきゅうだつもうしたい。女の子っぽい格好してみたいんさ」

「永久脱毛? まじか。高いんじゃないの? そういうの」と僕は言った。「バイトは? どこでやるの? 女の子っぽい格好してるじゃん。いつも」

 キョウを見るとライダースにくるりのツアーTシャツ。黒いジーンズに紺色のスニーカー。

「短いスカートとか、ないんさ。バイトはてきとーに探す」

 港の見える丘公園に向かって登る坂道。バイトなんて始めれば出会いがある、出会いがあればキョウはダメだ。すぐに人を好きになるから、かと言ってキョウを止めるのは僕の女々しい勝手にすぎない、ああ、やはり別れは近いな、と湿り気のある石段と苔壁の坂が僕を息切れさせた。

「キョウはこれから変わっていくよ」と僕は言った。

「どしたん急に。変わんねーよ、だいじ。心配なん?」

「俺なんて、キョウの人生における恋愛の物語の最初の方のちょい役になっちゃうんだよ。絶対。今は俺でも、すぐに他のやつを好きんなって、子供できて、すぐ結婚とかになっちゃうんだって。絶対」と僕が言うとキョウは少し目を閉じて首を振った。

「ったくガキなんだからー、れいは。自分はさ? れいちゃんは? れいちゃんは結婚してくれないん? あたし、来年十六だから、籍入れられるよ。いやなん?」

「嫌じゃあないよ」

「あ、いま一瞬目逸らしたからだめー。アウトー、はいアウトー。あーあたしはれいちゃんに捨てられるんだー。れいは多香美ときぬがわとやりまくって結婚する気なんだー」

 キョウはおどけて見せて夜の公園へと続く坂を駆け上がった。そして僕から十メートルほど離れた場所で、彼女は振り返った。

「れいちゃん!」と叫ぶキョウ。「自信持て! れいちゃんは天才よ」

 キョウがなぜそんなことを言ってくれたのか、僕は噛みしめる。キョウは僕の価値が自分の価値になると考えていたのかもしれない。なにしろキョウだけは僕を認めてくれた。実際には何の取り得もなくて、もがいてあがいて周りを汚すだけの惨めな僕を。キョウだけは僕を『気取り屋』だというようなことも決してなかった。

 両手を腰にあてて僕を待つキョウに近づくと母親のような笑みを浮かべて「いつか有名になってお金稼いで、またうまいもん食わせてね」と言って彼女は僕の頭を撫でた。

 港の見える丘には月明かりの下で鼻と鼻を寄せ合う恋人たちのシルエットがいくつもあった。横浜を代表する夜景をキョウに見せようと展望台へと進むとキョウは無口になった。横浜港に入る貨物船の赤色灯やベイブリッジのブルー、蛍のように明滅するオレンジ色の光点が街の呼吸を示すと、丘を昇る風が心地よく耳元を吹き抜ける。

「超横浜!」

「はは。なんじゃそら。だけどやっぱり綺麗だなあ」と、僕が言うとキョウはまた黙った。そしてキョウは静かな顔のまま「変わって消えてくんはれいだよ」と夜景に目を閉じて「れいはあたしを捕まえてくんない」と言って開いた。そして全く別の、他の事を考えていたとでも言うように「気持ちわる」と声色も強くキョウは目を細めた。「ねえ、あのライトって全部人間が点けたんしょ? その辺の団地のライトも、全部人がいるってことっしょ? 想像すると気持ち悪いわ」

 どういう感性してんだ? とは言わなかったけれど、そそくさと振り向き歩いてその場を去ろうとするキョウの背中を見ながら僕は呆気にとられていた。

「あたし、れいちゃんが行ったことないとこにいきたい。もう横浜いいや」

「待って」

 足早になってキョウは僕から逃げるように歩き出した。すぐに追いかけるとキョウは追いつかれまいと小走りになってまた距離を離した。「キョウ!」と呼んでも振り向かず、頑なに歩く背中からは怒気が見て取れた。段々に速度を上げるキョウに「待って、わかった、ごめん!」と叫ぶと少しだけ振り向いたキョウはほくそ笑み、公園の外に向かって走り出した。すぐに僕も駆け出して追いかけるとキョウの笑い声が夜の通りに響いた。さっき登ってきた坂の下りに差し掛かると「うわ、うわ、うわうわ」と言って足元に気を取られキョウが速度を落とした、そこへ勝負をかけて僕も全力で追いつくと並んだキョウは僕の左手をすぐに掴んだ。

「とまらないー」

「うわー、やばいやばいコケるコケる」

 足がもつれそうになりながらも僕とキョウは並んで精一杯走った。

 このまま走って、どうなっちゃってもいいや、と僕は思った。

「れいちゃーん」

「えー? あぶね、うわ、あぶね」

「れーいーじー!」


37 先日

 キョウが亡くなったことを知ったのはネットのニュースだった。普段からタレントのゴシップや下世話な流行り物など低劣な話題ばかり集めたサイトを見る癖が僕にはあって、何の気なしに開いた見出しは『【画像あり】彼氏に殺されたレイヤーの娘がかわいすぎるwwww』というものだった。事件から五年が過ぎようとする今も、その時スマホの画面に映ったキョウの笑顔は、僕の頭の真芯に鉄串を刺したように留まっている。キョウの懐こい顔のせいか、ストーカー紛いの事件性のせいか、テレビでも報道された。

 『東京都世田谷区の路上で2012年6月、音楽活動をしていたフリーター・田側香さんがファンを名乗る男に刺された事件で殺人と銃刀法違反の罪に問われた浅山臣弘被告人に対し、東京地裁は2月9日、無期懲役を言い渡した。
金田裁判長は、浅山被告人の犯行について「極めて冷酷」「社会に対する影響もある」と批判。量刑は「妥当である」とした。』

 2月9日はキョウの誕生日だ。

 キョウのことを知る者同士として楓やモノプランの面々と会ったことは一層僕のキョウに対する感情を削り出し、孤立させたように思えた。誰も事件のことに触れなかったのは、楓にしろモノプランのみんなにしろ、それぞれの人生に曇天の翳りを送るような真似はしたくなかったのだろう。それでも僕は多少なりともキョウに対する弔いの言葉が彼らの口から聞きたかったし、正直に言うとそれを期待する気持ちもあった。だけど、キョウは全ての事物の背後に下がり、遥か時間の外側に消え去ってしまったように触れられることはなかった。
 多香美に言われた通り、火曜日はマンションに帰らずに実家に泊まった。水曜日に仕事を終えてマンションに戻ると多香美の衣類や持ち物は片付けられて、キッチンからは冷蔵庫がなくなっていた。驚いて多香美に電話をかけると。
「なに?」
「なにって、冷蔵庫持ってっちゃうのかよ」
は? 当たり前でしょ。うちの両親が買ったものですからね」
「なんで、なんでそんなに、怒ってんの?」
「怒るっていうかさ、いいかげん疲れたわ。あなたのビョーキに振り回されるの」
「いや、今は俺だって生活頑張ってるじゃんか、しかもケータイとか引出しとか人のもの勝手に見るのもどーかと思うぞ」と、僕が話している途中で回線は切られた。
「どー考えてもれいちゃんが悪いに決まってんベー。ったく、バカなんだからー」と言って笑うキョウの声はもう聞こえない。


れいじへ
2007年4月8日


手紙かいたんだけど、さっきでんわしたからかきなおしてんだよ。なにをつたえたいんか、よくわからなくて。すこし電話切ってからぐったりして、2階にあがってCDききながらかいてる。ふかくにも、電話中ないてしまった。あたしは、やっぱり、辛かったって令次に言いたかった。そう思ったよ。今のれいの優しさには、折れないけど、お互い縁なんかきれっこない。すこし安心したのが本音。
あたしは何があっても、できるだけなにごともないような顔でいたい。なんて冷たい人なんだって周りに思われても、いっつも笑顔でいたい。泣くこととかにていこうしすぎなんかもしれないけど、めげたくないの。
昨日、お母さんを涙目にさせた。親が泣くのは、やっぱり辛いよね。
話し忘れたくだらないこと、話すね。
昨日の夜、夢にね、カエルがでてきたの。それもね、どっかのでっかい野外ステージで、生徒がカエルのかっこして、パレードっていうか、ダンスっていうのかな? やってんの。夢の中でもあまりにもおもしろくて、ベストポジションまで走って、デジカメで写真とってた。手術前からずーとライブにいきたいって言いつづけてたからなんだよね。すごいくだらないでしょ。ごめんね。
また、館林であうことがあったなら、また二人でカエルになってほしをみたいね。
電話したら気がぬけてどうでもいいことばっかりかいてら。あのね、6日においっこたちが入えん式だったんだよ。えん服がいちまつなの。すんごいかわいいんだよ。
7月6日、ぶどうかん楽しみだね。まだあんまり暑くないといいね。ハンバーグ、つくってくよ、夏場のお持ち帰りはお断り。3カ月なんて、あっちゅーまだよ。でんわで話したけど、確かに、時間がたって、消えてくのはさみしい。あたしサクラがさく近辺とか、そういう時に予定があえば会いたいね。よ。
バイトやめるよていは、まだないよ。恋も予定なし。恋人じゃなくなっても、やっぱ、れいくらい大切に思える人はそうそういないから。ほんと。
5月に新宿で逸平の会社の第一段かな? イベントのスタッフをやります。交通費とごはん代くらいはもらう予定でね。心配してください。心配はいらないけど。
田側兄妹の中で、やっぱり1番の仲よしは逸平だよ。あたしはあたしにも、ママにも、れいにもちかうけど、自分の心と身体は1番大切にするから大丈夫です。
今わかってる予定だけかこうかな。
4/13 病院 逸平の所にとまります。
4/14 下北 夕方にきぬと会うよ。
4/16 だつもう
4/20 びょういん↓ヒラメとご飯
あとは4/10 ヒラメと花見 これくらいかな。
れいは、学校頑張ってね。修士になって、大人になって、優しさが本物の人になって下さい。それで、甘い甘いうたをうたってね。また。
よくばりを言うなら、年をとっても、奥さんの誕生日にはサプライズでケーキをかうような、母の日には、子供と花屋にいってカーネーションを一本かうような、そんな人になって下さい。どんな理由でも、手はあげない人ね。あきらめないでね、素敵な人になること。このおねがいは、まだ、あたしのとなりの想像。でも、女の子なら誰だって喜ぶことだよ。


春は気をくるわせるようで、おちつけるようで、本当にまどわさせられるね。淡くて、すぐ消えるくせに。


またね!
きょうより


 三月、平日にぽっかりと仕事が空いてしまった僕は車で群馬に向かった。湾岸線を抜けて東北道に入ると、十年振りの景色があまりにも変わっていなくて時間が巻き戻ってしまったような気になった。狸の像に館林うどんの看板が目に入ると呼吸が重たくなり、自転車に乗ったジャージ姿の中学生や国道沿いの街の風景が目に入ると僕はもう駄目になっていた。
 キョウの家に着くと、納屋の前にあったちょうど車一台分の泥土スペースに僕は車を停めた。人の気配がしない。敷地に入ると左手の納屋の前には少し古いパチスロの台が三台並べてあり、壊れて戸の開いた冷蔵庫は空になっていた。その他に錆び付いた自転車が一台、蓋のない虫かご、閉じられたビーチパラソル、破れたダンボールの箱に芽の出たジャガイモ、犬のいない犬小屋、物干し台に洗濯物はなかった。
「だれ? 誰かいるん?」
「あの、僕です。僕、えと、覚えていませんか?」
 少し喧嘩腰のように聞こえるイントネーションは上州弁特有のもので、キョウのお母さんは著しくそれが出ている喋り方だった。僕は久しぶりに聞いたその声に少しだけキョウの面影を覗いて胸が切れるような思いがした。
「お母さんですね。僕です。市川です。あの、市川令次です」
 庭に面した掃き出し窓のカーテンの向こう側、漏れ聞こえていたテレビの音が消えて、網戸越しにキョウのお母さんの影が立ち上がるのが見えた。
からからからと静かに玄関の引き戸が開くと、ジーンズに黒いスウェットを着たキョウのお母さんが「なん? れいちゃん。来てくれたん?」と姿を見せた。
「本当にお久しぶりです。どうもすいません」と僕は言った。「ほんと、もっと、早く来るべきだと思ったりもしたんですけど」
「おい、そんなんもういいから。入んな入んな」
 居間に上がると僕とお母さんは二人だけだった。欄間に掛けられた鳩の出ない鳩時計は十四時十九分を指し、埃の被った神棚に榊はなく、草津温泉湯もみ柄の暖簾の向こうには誰の気配もなく、ちゃぶ台の上にはテレビのリモコン、マイルドセブン、吸い殻の溜まった灰皿、矢鱈大きな爪切り、消されたテレビとその横に仏壇、うん。
「チンしてあげて」
「はい」
 僕が目を閉じて手を合わせている姿をお母さんは満足そうに眺めてから、一度台所の方へ行き、氷たっぷりのアイスコーヒーをマグカップに入れて持ってきてくれた。そして悲しくても生きていかなければいけないと辛い核心を話してくれた。
「おねえちゃんはれいちゃんが一番だったみたいね」とお母さん。「東京行ってからもすーぐ一人、なーんかわっけえ子連れてきたんさ。けーどぜんぜん。そのあと真面目そうな年上のサラリーマンと付き合ってたみたいだけど、ギャンブル依存だとかなんとか言ってー。ったく誰に似たんだか。けーど誰連れてきてもれいちゃんのときほど楽しそうじゃなかったいねー。おねえちゃん、ずーっと引きずってたんさ。ったく、わかってるん?」
「本当にすいません。僕も引きずってます」
「じゃあもう今日でおしまい。ね?」
「はい」
「あの子はねえ、私の子だから一途なんさ。ここって決めたら突っ走る。びしーっと。次から次に男取り替えててもあたしにゃわかるんさ。れいちゃんに会いたいんだなって。顔に出てんさ。ママどしたらいい? どしたらいいん? ってね。だーからあたしもどーせこんなことになるんなら、無理に引き離さなければよかったのかなーって」と言って僕を見た。
「いや。大丈夫です。大丈夫っていうか、もうそういうのも、やめましょう」
「あーね。うん。そうだいね」と言うと途端にお母さんの鼻が真っ赤になり、右手の親指で涙を拭った。
「今度ジン平が家族で越してくるから、リフォームするんさ。子供さーんにん! まーったく、あたしん居場所なくなるーっての」
 いつも家に居たお父さんの話題が出ないし、気配も感じなかったけれど、僕は尋ねなかった。
「れいちゃん、大工だったっしょー。今もやってるん?」
「はい。まー一応」
「ちょっと見て欲しいんさ」
 木枠の歪みで閉まらない建具、二階の重量で下がった鴨居、湿気で腐りかけた台所及び洗面所の床を指摘して、シロアリの可能性も伝えた。和室を洋室にする際の一般的な費用と施工内容、在来浴室やキッチンを新しいものに取り替えた場合の価格帯について僕は説明した。
「へー。やっぱり大工さんだねー」とお母さんは言って、「一年くらいかかってもいいから、日曜日に来てタダでやって」と僕の肩を叩きながら笑った。
「いや、全然大工じゃないっすよ。大八です。なりたくてなったわけじゃないですし」
「それの何が悪いん? それでも人の役に立ってんだからー。立派よー。あーねー。おねえちゃんが居たら驚くねえ。ひえーれいちゃんが仕事モードでうちの家を見てるーって」


 いよいよキョウの部屋に上がってみると、僕の感情は混乱した。
「え? これキョウは何時に帰ってくるんですか? って感じですね」
「なーんも変わってないっしょ? 高校辞めて東京出てからたまーにしか帰ってこなかったかんね」と言ってお母さんは腰に両手を当てて部屋を見回した。
 いつも敷きっぱなしだった蒲団はなかったけれど、小さなガラステーブルに手帳や化粧品、CDなどが当時のまま重なり合っていた。カーテンレールの上に何故か置いてあるスーパーファミコンのソフトも当時のままだったし、太田のイオンで描いてもらった僕と並んだ似顔絵もそのまま長押の上に飾ってあった。
「あれとかって、新しい彼になんも言われなかったんですかねえ」
「あーね。おねえちゃんのことだから、文句言わせないっしょ。そうそうれいちゃん。そのゲームとかギターとか、れいちゃんのでしょ? 高価なもんは持って帰って。あのこ早く返せーって言ってもきっかねんだからー。わりいんねー。今頃んなって」
「いや全然いいですよ。そんなの」
「ゆっくり見てって。ちょっと孫迎えに行ってくっから」
 あの頃いつもそうしていたように僕はキョウの机の椅子に座ってタバコを吸った。煙につられて外を見ると田んぼの横を走り抜ける二台の自転車が見えた気がした。

 キョウの机の上を見ると僕のバンドのCDが二枚飾るように立て掛けてあった。一枚は初めて会った際にあげたもので、もう一枚はイベントの前に作ったものだった。僕はバンドを辞めてから自分の音楽は全てデータ化してしまい、CDは手元に残していなかった。懐かしいな、と思いケースの中を開けるとヨネとクマと三人で徹夜して折り込んだ歌詞カードが入っていた。
 A4サイズの歌詞カードを広げてみると一曲一曲のタイトルの横にキョウのメモが添えられているのを僕は見つけた。


鉛色のカエル 2nd『合図』

#1 れいちゃん、うた下手すぎ。今度からおけつれてくか。けどやさしい感じはすき
#2 クマさんのコーラスもえ
#3 なんかくるりっぽくね? 歌詞はフジファブっぽい
#4 こういうえれくとろにか? みたいなんよくわかんないよー
#5 たぶんあたしの歌
#6 やっぱれいはずるい きらきらしてずるい ギターさいこう
#7 れいっぽい 未来をしんじてない
#8 終わり方がよくない けど泣いた
きいててわかったけど、悲しいけど、くやしいけれど、れいは多分さいのうあんまりない気する。けどわたしはそんなれいがすきなんだとおもう。
ナマケロちゃんがんばれ! あいしてうよー


 ナマケロ。僕のバンド「鉛色のカエル」は当時そんな風に呼ばれていた。


 久しぶりに群馬を見ようと車を置いたまま散策していると、僕は思わぬ人物に捕まった。
「お前らが遊んでる間に」とジン平が僕を睨んだ。「俺は家族のために働いて、金稼いできたんじゃお。お前らみたいなんがおるけ、ニッポンはダメになるんじゃ。ったくどいつもこいつも愛だの夢だのチンカスみてえなことべえ言って。あいつがやられたんもお前らみたいなんがうじゃうじゃ、うじゃうじゃ、うじゃうじゃ、うじゃうじゃいるからじゃ」
「そうですね。ジン平さんは立派ですよ。僕らは遊んでたんです。だけど本当に大好きなことで遊ぶって、そんな悪いことじゃないと僕は思いますよ」
「あー?アホか。責任があんだろが」
「大工って、仕事がないことをアソブっていうんですけど。別に本当に遊んでるわけじゃなくて、下小屋を掃除したり、トラックを洗ったり、道具の手入れをしたりして過ごして、無駄にはしてないんです。それでもアソブって言い方でへりくだるんですけど。僕はそれが逆にクソかっこ悪いと思ってて、不自然だと思うんですよ」
「あ?」
「わかんないっすか? 遊ぶって、好きなことで楽しんでるってことだと俺は思うんですけど、それって最高に自分全開っていうか、幸せじゃないですか?」
「あ? 何言ってんだてめえ! 喧嘩売ってんのか?」
「それならそれでいいですけど・・・」
ジン平に殴られながら僕が考えていたことは、この男はずっとこうしたかったんだろうな、ということだった。きっと初めから僕を殴り倒して納得したかったんだろうな、と眠くなるような心地の中で僕は考えていた。そして僕の方も納得していた。
「お前も居場所がないんだろ」と、声にも出した。


38 銀色のカエル


 しばらく横になって地面の匂いを嗅いでいた。自分の呼吸音が耳に憑いて、頭が痛む。不快だったけれど雲が次第に姿を変える空を見ているのが面白かった。
 またしばらくすると雨が降ってきた。目を打つ雨が邪魔で行こうかどうかと考えたけれど、そのまま雨の空を眺めていた。だんだんと寒くなってきて、そろそろかと思うと突然に眺めていた空が虹色に変わった。
「よー。生きてたん?」
 痛む身体を起こして顔を上げると、銀色カエルの女が虹色の傘を持って立っていた。
「どうなん? そろそろわかったん?」
「まだわかんない」
「もうこれで最後よー。お互いに道を違えたんだから」
「うん」
「で?」
「1番」
「なんでそう思ったん?」
「俺の場合、お金と才能と時間は諦めがついたけど、愛っていうか、こうするべきだったってこととかは諦められなかったから」
「はいブー! 不正解でーす。おかえりくださーい」
「なんだよそれ。やっぱりおまえの匙加減じゃねーかよ」
「はいダメー。もうダメー。おまえって言ったから絶対ダメー」
「もういいよ。そういうの。もうなんか俺、別にどうでもよくなりつつあるよ」
「なにが?」
「なんか親を見返すとか、人に認められるとか、金儲けして目立つとか、そういうのもろもろがどうでもよくなったっていうか、結局はもう無理なんだなってなりつつある」
「そんなん最初っからわかってたじゃーん。それでも楽しかったよ? 少なくともあの頃は」
「そうだよ。楽しかったから。ずっとなんかそういう楽しかったことを追いかけてたんだけど。多分もう無理。俺、そろそろ四十だからね」
「あーね。人はあなたが思ってるほど不幸じゃないんさ。過ぎ去った過去を過ごすことは出来ないの? わかる? ぜーんぜん変わってねんだから、悪い意味で」
「変わったよ。毎日努力してる。つもりなんだけどね。興味ないけど資格とったり、小説書く真似ごとしてみたり。変わっちゃったよ」
「だーからそんなんが不幸の始まりなんさ。自分の好きなことだけやんなきゃ、人生なんて。なんかないん? 本当に好きなこと」
「自分の好きなこと? なんだろ? 巨乳?」
「ったく、バカなんだからー」
 去り際、銀色カエルの女は何か思い出したような顔をして空を見ると「めっかったんなら最後までやんなね」と言い残した。
 歩き出した銀色カエルの背中から目を離して空を見てみると、雨が止んでいることに気がついた。

39 セラピー9回目


中学生になって、私はおよそ
中学生ができる悪さの一切を試しました。悪さは人に見てもらわないと価値が出ないので、なるべく人目につくところでタバコを吸ったり、唾を吐くようにしていたんです。
「やっぱセッタがいちばんうめえよな」
「マイセンだべよ。マイセン」「おれはモアだな」

これは授業中です。
海保さん、なぜあなたは私立の中学を選んだのですか?
放課後、校舎から出てくる生徒たちの目につく位置を陣取って、私たち一味は唾を吐いたり、タバコを吸ったりと不良でした。
「おい! ウメハラ、明日デラべっぴん持ってこいよ!」
「おい! ガマ男、おまえんちにピザが届くから、早く帰ったほうがいいぞ」
ひどい話です。だけどもっとひどいことを私はしたんです。校舎から出てくる生徒の中に私は懐かしい顔を見つけました。
「おい! 浅山! ちょーこっちこい! いーからこっちこい! ダッシュ!」
ひろちゃんは走ってやってきました。
「おまえ、最近なにしてんの? ゲームやってんの?」
「基本ギター弾いたり、アニメ見たりしてます。ゲームもやってます」
「ギター弾くの? すげえじゃん。ゲームはなにやってるの?」
「ファイファンはとりあえず全部やってて、最近キングオブファイターズやってる」
「まじで? じゃあ今度対戦しよう?」
「はい。おねがいします」
私は大変気を良くしました。だけど私はこの約束を守らなかった。
ひろちゃんの敬語が気持ちがいいとすら感じていたんです。
だからひろちゃんも消えてしまったんだろうと今は思います。

40 令次


 三十六回目の秋、日曜日に僕は横浜の古い喫茶店で多香美と待ち合わせをしていた。そこで邂逅は訪れた。彼女は更に見違えるほどの女性になっていて、場所も場所だったこともあり、人違いだろうと僕は思った。ところが彼女とその友人の会話の端々から聞こえる「はる」という呼び名と、傍に座った僕に気づいてからの彼女の落ち着きのない目線と仕草が僕に確信と勇気を与えた。
「春子ちゃん、だよね。驚いたな。どうして? 学校とか?」
「いえ、大学はとっくに卒業してますよ。今日は友達に」と言って春子は向かいに座る女性を目線で示した。
「こんにちは」と言って、頭を下げるとその女性は春子の空気を察したように席を外した。
「市川さん、お元気だったんですか?」
「うん。春子ちゃんは?」
「はい。元気です。ずっと元気なかったですけど、今は元気です。驚きました。こうして横浜に来ると、いつも市川さんに会うような気がしていたんです」
「ほんと? すごいね。俺も本当に驚いた。もう結婚、した? んだね」僕は春子の白い薬指のリングを確認しながら尋ねた。
「はい。四歳の娘がいます。ピアノ弾くんですよ」
「ほんとに? いいねえ。よかった」
「はい。市川さんも、元気そうで本当に良かったです」
「俺さ、このあいだキョウの家に行ってきたんだ。ちょっとお母さんに会いに」と僕が言うと、春子は突然に顔色を曇らせた。そして下唇を噛み、目線を横に流し、右を見て暫く考えたあと、左を向いて一言だけこう言った。
「やめましょう。過ぎ去った過去を過ごすことは、もうできないんですから」
 春子は友人が戻るとすぐに店を出た。席を立つ際に、お手本のような笑顔で左の八重歯を見せてくれた。そして多香美がほとんど春子と入れ違いに店に入ってきた。
「これ。物証と思って持ってたけど、やっぱり返すわ」
「なんだよ。お前が持ってたのかよ。いつのまに」
 テーブルの上に多香美が置いたのは楓がくれた水森亜土の包みだった。

 テーブルに置かれた水森亜土のイラスト柄の包み紙を開くと中身は写真だった。
 紙袋に入ったレコードを見ているトムヨークの髪型を真似した僕。これは楓が撮った一枚だ。よく覚えている。驚いたのはその他の写真だった。
渡瀬駅、田んぼ、赤城連峰、キョウの部屋、自撮りしたキョウ、卒業式のヒラメ、観覧車、海、観覧車の中のキョウ、紺色のスニーカー、そして前を歩く僕を背後から撮った一枚。
「その包み紙、見てみ」と言って多香美は僕に水森亜土の包み紙を開くように言った。


市川さん


キョウちゃんが撮った写真です。
キョウちゃんSDカード取り忘れたままでした。
気付かなくってごめんなさい。
キョウちゃんが撮った市川さんが素敵だったので嬉しくなりました。
市川さん、私は元気です。
いつかまたナマケロのライブが観れることを願って!


鬼怒川 楓


「れい、もう資格勉強とかしなくていいから、先ずは病気ちゃんと治しなね」
「ねえ、多香美はさあ、冷や汁って、食べたことある?」
「なにそれ? 知らない。そんなの」
「今度作ってあげるよ、一緒に食べよう・・・ いやいや、やっぱそうじゃなくて。多香美が食べたいものを一緒に食べよう。やっぱり、離婚とか絶対よくないよ」と僕が言うと、多香美は僕から目を離さずにコーヒーを口に運んだ。


「なんでも思いつくままにあなたの記憶を話してください。もし話すのが難しいのなら、書くことです。書くことで癒されることもあります」とクリニックの先生に言われたのはいつだったか。だけど僕にはもう必要のないことだ。
 明日の現場はどこだっけ? 持ち物は? 道具は何が必要? 来週の予定は? 来月は? 今日は早くに寝て明日の仕事に備えよう。
 そうして過ぎ去り行く今を僕らは共に過ごしていく。



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