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『鉛色のカエル』10

33 春子とキョウ 過去

 春子から僕のケータイへ連絡が入ったのは索漠とした冬がようやく過ぎて、本来であれば陽光の匂いの変化が新しい季節への期待を高めてくれる初春の頃だった。あの夜の事件が僕に与えた事実は生活に少しの変化をもたらしていた。ライブハウスからは翌日に連絡が入り、今後の出演は不可とされ、要するに出禁になった。主な理由はライブハウスと懇意にしてるインディーズレーベルの小林氏に対する暴力と、高価な機材があるのに関わらず液体をぶちまけたことが今後の運営方針に対して云々とのことだった。クマゴローはバンドを抜けただけに留まらず、電話にすら出なくなったし、メールをしても返事が来なくなった。クマとキョウの二重スパイみたいな関係は『クマさんと別れた もう連絡し てない』と騒ぎの翌日にキョウからメールが届いたけれど、僕はそれに『そうなんだ』とだけ返し、その後のキョウのメールは無視し続けた。週に二回のバンド練習はなくなり、キョウとメールでのやりとりもなくなった。身体が純粋な重量になってしまったような日常と眠りまで遠い晩をニッカウイスキーの力でなんとかやり過ごす日が続いていた。
「市川さん。よかった、出てくれて。今日、館林来れますか?」と話す春子の声はしっとりと落ち着いていて「キョウちゃん助けに来てください」と続けられても僕は気が入らなかった。
 僕は戸塚の舞岡で新築の現場に入っていて、春子から電話をもらった時は外回りの足場の上で蚊と闘いながら軒天を貼っているところだった。午後の四時をまわっていたと思う。勝手な僕はクマがバンドを抜けたことにキョウは一役買ったと思っていたので、それまでと同様にキョウとつながりを持つことは避けたかった。
「どうしたの?」と尋ねると少し間があってから春子が受話器にかかる吐息のような笑い声を漏らしたので僕は驚いた。
「市川さんのこえ」と、低く小さく、丁寧に温度を保った湿潤な声で春子は言った。それで僕は春子の気持ちはわかったけれど、頼み事とのバランスが悪すぎて僕は足場から落ちそうになるくらいに拍子抜けし、簡単だな、と思った。ところが事態の詳細を聞いてみるとキョウの奔放な青春が薄気味の悪い方向へ曲がっていくのが見えるようで僕は仕事の手を止めることになった。

 県道沿いのコンビニエンスストアの駐車場で春子はユリと正午に待ち合わせていた。館林の春は暑く、三月であっても汗の流れる日があり、春子はコンビニで大好きなミントアイスを買って店の日陰で舐めていた。なんとはなしに駐車場を眺めていると自分と同世代の女の子が通りの向こうからやってくるのに気づいた。暑い日に関わらず長袖の黒いTシャツ、アスファルトを擦るほどの黒いロングスカート、黄色いパンプス、特徴的な広い肩幅がケータイを顔の前で操作する姿から強調されて見える。「キョウちゃん!」と声は出さずに春子は気づいたが、きょろきょろとどこか挙動に違和感のある黒いキョウに話しかけることができなかった。するとすぐに一台の白い高そうな車(と春子は言った)がコ ンビニの駐車場に入り、その車から髪の長いジャージの男とスーツの男が降りてきた。
「早く降りろこらあ」とジャージの怒鳴る声が聞こえて、後部座先から白いシャツにジーンズ姿の男が引っ張り出される様子が見えた。
「ソウ兄!」と叫ぶ声とともに引き出された男に駆け寄ったのがキョウだった。春子には見覚えのないその男はキョウに対して、祈るような謝るような様子で何かを話しかけた。仕上げに男がキョウの肩に触れると、キョウはそれを嫌がり少し後ずさりしたが、ジャージの男がキョウの背中を押すようにして白い高そうな車の後部座席に乗せた。スーツの男が引き出された男に何か怒鳴るように言い放つとスーツの男も車に乗り込み、キョウを乗せた車は駐車場を出て行った。
「ごめーん、来る途中でミカ達にいきあったんさあ。あーミント! ウチも買ってこよー」と言って遅れてきたユリがコンビニに入ると、駐車場に残されていた男も店の方へと歩いてきた。春子は男の顔を見て「怖い」と強く感じた。顔中あざだらけで唇と瞼からの流血は黒く、左目は塞がるほどに腫れていた。
「ユリ、早く行こ」「えーチャリ乗りながらアイス食べれない」「いーから!」
 少し距離はあるが町外れのカラオケ店は地元の中高生に人気の激安店だった。一人三百円にドリンクを一杯ずつ頼めば歌い放題の時間無制限で、春子たちも例外なく通いつめていた。人気の理由はもう一つあって、店の事務所兼受付を含めて各部屋が全て独立したプレハブ小屋になっているのだ。つまり受付さえ済ませてしまえば、プレハブ小屋が一つレンタルされるようなもので、持ち込み自由、出入り自由、言ってしまえば後から誰がそこへ来ようが店主にはわからない穴だらけの経営だった。
 先刻目の前で起きた出来事もすっかりと忘れて春子はユリとカラオケを楽しみ、歌い疲れた後は恋愛の話になった。ユリの惚気に付き合わされて半時間もすると春子は話の区切りにと用を申し出た。トイレだけは隣接した雑居ビルの二階まで行かなければならず、春子はそこへ向かった。トイレから出ると雑居ビルの外階段から連立するプレハブ小屋を一望することができた、その条件で春子は見つけた。
「あの車!」とだけ声に出して、さっきの白い車だ、と身を低くした。コンビニで見た白い車が敷地の端に停められていて、その直近のプレハブの前にさっきのジャージ男が立っている。春子が見ているとサラリーマン風の男が現れて、ジャージの男にお金を渡してプレハブの中へと入った。淡々としたその不気味なやりとりを見てプレハブの中にキョウがいるのだと春子は確信した。
 ユリに事の一部始終を伝えると「警察呼ぶべ」とユリは即座に言った。春子はケータイを持ってプレハブの外へもう一度出た。陰から見ると車はまだ停まっている。電話をしなくちゃ、と思って春子がつないだ番号は警察ではなかった。

 通りすがりを装ってプレハブ小屋の一つに近づき、裏手を見るとエアコンの室外機があり、その上には両開きの腰窓が付けられていることがわかった。腰窓には遮光カーテンが下げられていて中は覗けないけれど、カラオケの音漏れが恥かしいほどに大きい。無駄な音量と残響の所為で怒鳴り声のように聞こえる男の歌声が別の小屋からの音漏れと相俟って、カラオケ店の廊下のような音空間を敷地裏手の雑木林にまで広げていた。
「おもっきし品川ナンバーじゃん」白い車を見つけて僕は声に出した。
 車は通りから引き込まれた敷地脇の袋小路に停まっていて、でっぷりとタイヤの厚い国産高級車が暗がりの中でも鋭く輝いて見えた。その直近の小屋の前で「カラオケDAM」と書かれたノボリが揺れて、退屈そうに首を回したり、あくびをしたりと周囲に悪意を撒くジャージ姿の強面男をちらつかせた。無理だ、と思った僕はその男から目を離さぬように別のプレハブ小屋の脇にしゃがみ込んで、キョウの顔を思い出した。
 僕は何もできずに時間が過ぎることを待った。怖気と未練が頭と胸と交互にあらわれて、世界か自分か殺そうかと苛立ちの発作が起つ。地面を見ると輪ゴムや塩ビ管の欠片、ナベビスなんかが落ちていて触れると指先に泥がついた。そして何故だか幼い頃に住んでいた平家の居間を思い出していた。僕の名前入りのホールケーキを前に母と兄と姉とで親父の帰りを待っている。母はケーキと僕を写真に撮り、唐揚げとちらし寿司がちゃぶ台に並ぶ。兄と姉がケーキに飾られたホワイトチョコのネームプレートに手を伸ばす。「ダメ! 今日はれいじが主役なのよ」「お父さんまだあ?」「お父さん忙しいんだって。大きくなったられいじも大工さんになって、お父さん手伝ってあげてね」

「市川さん」と不意に春子の囁く声が背後から聞こえた。
「うわあ」
「遅いから来ちゃいました。どんな感じですか?」と言って春子も屈んだ。
「いや、正直びびって何もできね」
「えー、市川さん大人なんだからなんとかしてくださいよ」
「なんとかしてあげたいから来たけど、俺はダメだ。こえー。そもそもキョウはどうしてこんなことになってんだよ」
「え? なんとなくわかりませんか?」と春子に言われて僕は黙った。
 間もなくしてキョウのいるプレハブ小屋からスーツの男が出てきた。その男が外に居たジャージの男に何かを告げるとジャージの男は不機嫌な様子で車の方へと歩み寄り、そのまま運転席に乗り込んだ。
「あの人」と春子が声を漏らした。
「春子ちゃんってさ、キョウが何してるか知ってるの?」
 春子は立ち上がってプレハブ小屋の方へと目を凝らした。
「いや、今じゃないよ?」と僕は言った。「今じゃなくて、なんていうか普段からさ」
「なんとなくですけどね。市川さんもう少し近づきません?」
 春子は少しも気後れせずにキョウのいるプレハブ小屋の裏手まで周り、僕に向かって手招きをした。やむなく僕も腰を低くして近づくと「聞こえますか?」と、春子は人差し指を鼻先に立てて、声を出さずに耳に集中しろ、と合図した。
「え、普通にカラオケやってんじゃん」「はい」「どうゆうこと?」「しかも」
 近づいたプレハブ小屋の中から漏れているのは酔っ払いの千鳥歩きのような歌声で、気分が悪くなるほどに下手くそだった。春子は不意に僕の腕を掴んで口を開いた。
「学校の先生です。歌ってるの」
 春子の透明な両の目が僕の顔を中心に捉えて小刻みに揺れる。小屋の中で何が起きているのか、その不安を僕の瞳へ伝えようと、小さく動いてゆっくりと濡れていった。
「意味わかんないんだけど。藤原? じゃないんでしょ?」と僕は春子の強張った肩に軽く触れて尋ねた。
「ナカムラっていうカラオケ好きの」
 そういえばこの声、とは思わなかったけれど名前には僕も覚えがあった。やがて春子は両手で自分を抱くようにして身体をさすり、何か振り払うように首を振った。
「市川さん、キョウちゃん助けてあげてください」
「いや、まじかよ、けど普通にカラオケやってるよ?」
「全然普通じゃないんです!」
 暗がりの中に響くナカムラの歌声は次第に奇妙な変化を示した。歌声は所々で奇声になったり、呻くような声になったり、落ち着いたかと思うと下品な笑い声を上げたりして、もう歌っているとは言えなかった。確かにおかしい、そう思うと背中に汗が流れた。春子は力なく顔を上げて深く息を吸い込み、僕の顔を見つめた。
「ナカムラって、本当は歌がすごい上手いんです!」
 時刻は午後九時半を回っていた。春子の言葉の意味をまだ飲み込めずに僕はとにかくに彼女の肩を抱いた。春子の身体は華奢で小さいけれど、暖かい呼吸が感じられた。
すると聞こえていたカラオケの音楽が止まり、すぐに次の曲が始まった。
「やだ。やだあ。ごめんね。キョウちゃん、ごめんね」
 新たに始まった曲の歌声を聞いて春子は更に泣き出した。膝から崩れそうになった春子を抱いて、漏れ聞こえる歌声に集中すると僕も気がついた。
「さっきと違う奴じゃん。歌ってんの」と僕は声に出した。間違いなく別の男が歌っている。だがよくよく聞いてみると「まじかよ」と僕は呟かずにはいられなかった。その男の歌声もナカムラと同様に吐き気がするほどの音痴だったのだ。
「え、なにこれ、どうゆうこと?」
 僕はケータイを取り出して通話履歴からキョウの番号へと繋げた。
「呼んでるけど、出ない。つうか小屋の中で鳴ってる? マナーモードか?」
「市川さん、市川さん」と言って弱々しく僕を促すと、春子は僕の後方、小屋の脇、遮光カーテンの閉じられた腰窓の下あたりを指差した。
「え? なに? なにあれ?」
 黒く暗闇を一段深く引き込むような泥土の上、仄かな月明かりの中でも鮮明にぬるりと煌めいて、そこだけスポットがあたっているようにくっきりとそれは転がっていた。靴だ。片方の靴。黄色い靴。黄色いパンプス。誰がどう見ても女性のもの。そしてこれを誰が履いていたのか僕は知っている。爪先に付着した泥と綺麗な部分の輝きがまだ放られたばかりだということを示していた。キョウの名前を呼んで靴を拾い上げると、自分の声が強烈に涙を誘って堪えることができなかった。
「ひっ」と、不意に春子が息を吸い込むような悲鳴を上げた。春子の視線の先、腰窓、遮光カーテンが少し開いている。身体が芯から一瞬で凍りつくのが僕はわかった。全く知らない男がこちらを覗いている。
 数秒間、数分間だったかもしれない。虚ろな目つきをして表情がない、かと思うと引きつるような笑みを口角の端で作り、とぼけるようにまた虚ろになる。年齢は二十代か、四十代か、考えてもわからなかった。僕はその男を睨み続けた、春子が動いて男が消えてしまうまで。
「市川さん、今の人、なんだか」
「春子ちゃんはコンビニまで戻って待ってて。十五分、いや十分経っても俺が戻らなかったら警察に連絡して!」もうびびってらんねーぞ、そう思って僕は必死に怒りを作り上げて心の準備をした。
 戸口の方へ回ると音楽が止まっていることに気づいた。この位置からだと車に戻ったジャージの男から見えてしまう。気になって車の方を見ると車には誰も乗っていない。このとき、僕はさっきのとぼけた男に対する怒りで興奮していて、春子がまるで言うことを聞かずに僕の後ろに付いていることにも気づいていなかった。
「おい、ふざけんなよてめえ。警察に通報したからな」と、僕は叫びながら勢いよくノブをひねって小屋の扉を開けた。
 部屋の奥からむっとする匂いが外へ抜ける、中心に置かれたテーブルには意外にもグラス一つなく、黒いロングスカートの女がソファにもたれてカラオケのモニターを眺めていた。よく見ると黒いTシャツはよれて、首筋や頰に赤いアザがある、それがキョウだった。男は一人もいなかった。
「よー、なにしに来たん?」とキョウはモニターから視線を動かさずに言った。するとカラオケの音楽が始まり、YUKIの『JOY』が掛かった。
「ねーれいちゃん、この曲ってさー。れいちゃん風に言うとワールズエンドばらの花だいねー。あたしはこんなん好きだけど」と言ってキョウは首を左右に振ってリズムにのって見せた。

「なにやってんだよ」
「どしたん。なんで泣いてるん?」
「なにやってんだよ」
「よしよし、いーこいーこ。泣かないの。よしよし」
「なにやってんだっての」
「よーしよし、いーこ。泣かないの。ね」
 春子は僕の情けない姿を傍で見て「キョウちゃん」と一言、そして静かな涙を流した。
「キョウ、帰ろう?」
「どこに?」
 即座に返事をしたキョウの目つきは追い詰められて鋭く、僕を責めるように睨みつけた。


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