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『鉛色のカエル』5

15 銀色のカエル


機材をまとめて熱気が残る地下から外に出ると、僕らは必ずたくさんの宿題を抱えていた。これからまた冷気の拡がる日常へと戻るのに足取りが軽いはずはなかった。長い一日の終わりに向けて階段を上がると、ライブハウスのある路地から商店街通りにぶつかるところの自動販売機の前で言い争う男女が見えた。僕はメンバーがコインパーキングへ車を取りに行っている間、機材の見張り番をしながら人気のない商店街に声を響かせるその二人を眺めた。「お疲れ様でしたー」「あ、お疲れ様でした」と、僕らの後から出てきたバンドがギターやベースを肩に、エフェクターボードをキャリーに乗せて商店街の方へと帰っていった。彼らがぞろぞろと傍を過ぎても男女の言い争いは止まることがなく、殴 り合いこそしていないけれどただならぬ雰囲気で、僕の方が近隣に対する騒音や暴力沙汰を気にかけるようになってきた。ケータイを取り出して気を紛らわせようとすると余計に男女の声が耳についた。どうせくだらない痴話喧嘩だろう、周りのことも考えずに怒鳴り合う最低の連中だ、僕はそう考えていた。
 トレンチコートの女はニット帽をかぶっていて、ポケットに両手を入れたまま自動販売機に寄りかかり男の話を聞き、時々攻勢に転ずると睨むようにモッズコートの男の顔に近寄り、空を見上げたり、道路を見たりして、うんざりだというような気配だった。
「逃げないでよ!」と、また女が怒鳴った。「話が違うって言ってんの!」
 この女にとって、相手の男と交わした約束は重要だったようだ。僕は何度も繰り返される問答でいくらか状況が掴めてきた。
「あんたの夢が、世界に存在を認められたいってことはもうわかってんの」
 男の方は黙ったままだ。
「口が上手いから、都合よく、都合よくさ。いい加減にしてよ」
「だから、今はそんな大きい話をしてるんじゃないって」と言い返す男の声は大きく、語勢は強かった。
「ただ、夏にワンマンやれるかもしれないから、そういう話きたから。それまでは待ってって言ってんだよ」
「あんたバカなの? 夏まで待てるわけないでしょうが? もういるんだからね?」と言って女は自分のお腹を見た。
「けどさ、言おうかどうか迷ってたけど、お前、去年のクリスマス、ずっと連絡とれなかったじゃん。あんとき何してたんだよ」
「最悪、まじサイッアク。あんた何が言いたいの?」
 僕の両手も冷えきって、そろそろ冬も夜に沈むという時刻、自動販売機の弱い光は女の涙を隠して、男の我儘を照らしていた。
「違うって、お前のこと大事に思ってるって。大切だよ。それはまじなんだって」
「そんなん大前提だわ。そう思ってないのにやってたら殺すし」
 男はまた黙り込んだ。
「とりあえず、私金ないから、一週間以内に決めないんだったら親に言うから」
「一週間って、ワンマン夏だって言ったべよ? 聞いてなかったの?」と男が言った直後に乾いた打撃音が鳴って、次いで女のすすり泣く声が聞こえてきた。男は今ではもうはっきりと男であり、女ははっきりと女であることだけが正しく見えた。僕はタバコを咥えてライターを探したのだけれど見つからず、打ち上げのときに誰かに貸したきりだったことを思い出した。そのすぐ後にガラスに爪を立てたような女の絶叫が辺り一帯に響いて、それを隠すように男が女を抱き寄せた。男は両手に力を込めているのがわかったけど女の両手はだらりと力なくぶら下がっていただけだった。
「ほらね、君もよく見ておきなさいね」不意にあらわれた声の方を見るとライブ前に楓と話していた銀色カエルの女がどこか悦に入った表情で男女を見ながら立っていた。
「あの二人に足りなかったのは次のうちなんでしょう? 1番、愛。2番、お金。3番、才能。4番、時間。さぁみんなで考えよーう」
「なんですか、それ」と僕は言った。
車のヘッドライトが近づいて、目の前でサイドブレーキを引くとメンバーがすぐに降りてきた。
「うえーい、おまっとさーん」
「あーつかれた、もーつかれた、帰ろうぜー。ん? なんかあった?」
「いやいや、別になんにも」
 駐車場代はいくらだったとか、メシはどうするかなどを話ながら機材をステーションワゴンに積み込んで、銀色カエルの女に一応の挨拶をしようとすると既に彼女は消えていた。車に乗り込んで、車内から自動販売機の方を見ると男女はもうそこにはいなかった。
 ・・・シ ・・・メシ ・・・飯!
「飯だよ。全然俺らの話聞いてないべ? 喰って帰るか、そのまま帰るか、さっきから聞いてんじゃん」と言われるまで、僕は数分前の出来事を思い出していたのだ。
「途中で246沿いのすき家に寄ってくか、地元まで戻ってラーメンショップ、もしくはそのまま帰る。どうする?」
「ごめん。今日はそのまま帰ろう? すまん」と僕が言うとみんな快諾してくれた。
 車内には今日のライブテイクを録音したMDが流れていて、僕らのささやかな反省会が始まっていた。完璧な演奏はいつになることやら、僕はいつだって歌もギターも下手だったし、ベースはときどきで音を外し、ドラムは走ったり手数を間違えたりが常だった。
 僕が一通り今日の反省点と今後の方針を話して、みんなを安心させる、というよりもこの船を降りないように個々の褒めるべき点を愛撫した。すると船内には満足した沈黙が充満し、僕らは日常に戻る勇気を取り戻すのだ。
 メンバーとの話を終えて、過ぎていく沿道の街灯を見ているとケータイが振動した。キョウからのメールだった。
『れい、館林ついたよ もうしんぱいしないでね れいも、海城さんも、ハコもきぬがわもみんなきらきらしてずるい おやすみ』
 キョウのメールを見て、まっすぐ帰ろうと提案してよかったと思った。

 バンドの練習は週に二日、水曜日と金曜日に決めていた。練習と言うよりは主に作曲。といっても作曲という言葉を積極的に使うのは気恥ずかしくて、曲づくりとか曲を固めるとかそんな言い方をしていた。「ライブ前までは新しい曲固めるから。あとずっといじってるやつもいい加減固めちゃおう」「うえーい」といった調子にやりとりをして、音を合わせると楽器がどんどん想像を形にしてくれた。その瞬間はこの上ないもので、僕らは生まれつきの不安の中でもいつも笑っていた。
 バンドの後で家に帰ると午前二時を回っていることもあった。それでも朝六時には目覚ましに起こされて六時半には居眠りを連れて家を出た。横浜に太陽が昇っている限り僕は何者でもなく、ただ汗をかく労働者だ、そう思っていた。子供の頃から見知った塗装や左官の職人や、僕を呼び捨てにする大工と一緒に埃の舞う建築現場でコンビニ弁当を食べた。石膏ボードや合板の上に寝転がって、歌詞のことや新曲のアレンジのことを考えていると眠くなり、十二時五十五分にアラームをセットして眠った。大工の仕事は嫌ではなかった、けれどこのままでいいはずがない、という寄る辺のない憤りが僕を走らせたり打ちつけたりしていたのだ。

16 多香美 現在

 汗臭い疲労を連れてマンションに帰ると酔いが回って眠くなるまで、僕は何も始めずにスマホでネットを眺めていた。やらないといけないことは洗濯や掃除くらいで、資格の勉強はやるべきことと頭の中にあっても手足は動かなかった。
 突然に画面が連なるグラビアアイドルの画像から着信画面へと切り替わった。
 僕はソファに座り直して、振動し続けるスマホを見ながら受けるか受けまいかと考えた。 
 多香美。
 多香美の仕事は美容室の雇われ店長で帰宅時間にはいつも夜十一時を回っていた。時計を見ると十時半を過ぎていて、あーそうか、と思った。多香美の声は滑舌が良くはっきりと鮮明な音で、敵に回すと耳が目よりも先に涙を流すほどに疲れる。
 意を決して電話に出ると案の定彼女の声は音量も音質も一定な機械音のようだった。
「次の火曜日にまた荷物取りに行くから」ため息をついて「悪いけど、その日はマンションに帰ってこないでね」
 喧嘩なら今まで何度でもあったはずなのに、今回はなぜすぐに出ていくことを決めたのか、僕はキッチンに行き換気扇の下でタバコに火をつけた。
「LINE、無視しないでくださいね」
「弁護士でもいれるつもりなの?」
 電話越しに車の横切る音が聞こえる。多香美は外か。
「どこにいるの? 俺、お金なんか隠してないし、浮気だってしてない。金の無駄だと思うよ、弁護士なんて」
「一対一で話すと、感情的になるし、あなたは口が上手いから、丸め込もうとするでしょ。過去にとり憑かれた人間をいつまでも相手にしてると、こっちが前に進めないのよ」
「勝手にすれば」
 そこで会話は途切れ、数秒の間沈黙が続いたかと思うと、そのまま回線が切られた。結婚は僕にも多香美にも期待した約束を果たしてくれはしなかった。
 酔いから醒めるのが堪らなくて冷蔵庫に行き、氷とポッカレモンでもう一杯ちょろいウィスキーを注ぐ。
 ソファで気がつくと重たい朝になっていた。そういえば楓にもらった水森亜土はどこに行ったのだろう。なににせよ仕事に行かなければならない。

ソング#5

「私はただの女 多数の少女
過ぎていく日々と突然の世界
ただ作ろうとしただけなのに
唇を変え続けることになっている
嘘は私ができないことを知らない
立ち続けているのに髪しかさわれない
始めないと会えないことも知ってるし
彼が私を手に入れないことも知ってる」
父は若すぎる彼になるし
彼は若すぎる父になる
少女は母になろうと始めている
母は若すぎる彼に求めている
「彼女は肌でしかない そばにいつも立っている
僕の日々に則して そばにいつも立っている
今日も彼女の唇はそばで歩いている」
「純粋にあなたを聞いているのよ」
父は若すぎる彼になるし 
彼は若すぎる父になる
少女は母になろうと始めているのに
母は若すぎる彼に求めている
「あなたは休むことができるけど
機会を設けることもできるでしょう
もっと早く走るために
もっと強く求めるために
もっと離さないために
少女と彼女と母をね
そしてもし近くにいるならば
そばに居るのなら
また違う少女と世界を求めてしまうのよ」
父は若すぎる彼になるし
彼は若すぎる父になる
少女は母になろうと始めているのに
母は若すぎる彼に求めている

「私はこの曲がナマケロで一番好きよ」
「けどこれ、多香美の歌じゃないんだ」

17 キョウとソウ平 過去


「おお、お前、意外とはやかったな」と僕を見つけてイヤホンを外すキョウの口ぶりはよそよそしいものだった。実はキョウを見つけてからしばらく、すぐには近づかずに少し離れた位置から僕は彼女を見ていた。キョウはコンサートホールのエントランスから少し離れた場所の植込みのブロックに座って、ケータイを親指でせわしなく弾き、それが済むと右に左に首を回して、前方を薄目で数秒見てからまたケータイに顔を落とす、こんな仕草を数分で二回行った。少しだけ髪が茶色になったキョウは黒い七分袖のTシャツに黒いマキシスカートを履いて、黄色いパンプスと黄色いポシェット、それに大きな黄色いリボンとを揃えていた。箒に跨ったら飛んでいけそうな格好だったので、そのことをキョウに 言うと「おまえのそのきんもいジャケットよりましなんだよ」と言われてしまった。
「川崎なんて久しぶりに来たよ。キョウは来たことあるの?」と僕は言った。するとキョウは立ち上がって、僕の左手にしがみ付くように寄り添い、その腕を足だけで引くようにして歩き出した。「やっぱり、れいはれいの匂いがするんだよな」
 キョウは頭が良い。こういったキョウの絶妙な一言が僕と即かず離れずの距離を保っていた。キョウの顔を見ると、何か? とでも言いたそうにけろりとした表情で僕を見つめ返して、こっちの方がばつが悪かったくらいだ。
「ご両親は? 知ってるの? キョウが川崎に来てること」
「知ってるよー」と返すキョウのイントネーションは僕とは少し違う。
「んでさ、なんで川崎? ご両親が知ってるならいいけど、結構遠いじゃん、館林から」川崎と横浜は東海道線で隣、両親の許可を得て川崎にふらっと来れてしまうのなら、去年のクリスマスに僕がわざわざ群馬まで会いに行ったのはなんだったのかと思った。
「えー、近いよー。横浜も近いよー。ぼんぼん小僧はその辺感覚がおかしんさ」
「おかしいかな。つうかぼんぼんじゃねーし。ってか質問に応えなさいよ」
「あーね。ソウ兄に会うんさ。川崎に住んでるって言わんかった? 絶対言ってるよ」とキョウは掴まえた僕の左手を必要以上に振って歩き、大げさに嬉しさを表していた。
「言わん言わん。初めて聞いたよ」
「ねぇれいちゃん。はらへった」
「え? 俺は全然空かないけど、まだ十時半だし」と僕が言うとキョウは口を尖らせて一瞬だけ目をカッターの刃のように細めた。
「すいませんでした。あー、姫、なにをお召し上がりになられますか?」
「ほーほっほっほ、うえーへっへっへ」とキョウは右手の甲を口元に左手を腰に当て、のけ反って笑った。
「それ、本物初めて見た。やっぱキョウはすごいね、ほんで何食べたいの?」と僕が言うとキョウは照れを隠すように声量を上げて笑い、僕の肩を強めに三回叩いた。痛い痛い、もうやめて、と僕が言いかけたところで「サイゼでほうれん草のソテーとフォッカチオ食べたい」とキョウが言ったので、僕は叩かれた肩と胸が一緒に暖かくなった。
「ねぇ、サイゼリヤだったらさっきのコンサートホールにあったっぽいよ」
「いーのー、あるきたいのー。どっかにまたあんべ」
 川崎駅のコンコースをキョウと手をつないで歩くと、館林ではなぜか気にならなかった一つのことで頭がいっぱいになってきた。キョウは「なんあれ、ダッサ」「きも、きんもー」「あーねー。それがオシャレだと思ってるんかねー」と、すれ違い行き交う人たちに厳しい視線を送っていたけれど、視られているのは僕らの方なのではないかと感じていたのだ。キョウは十四歳で僕は二十四歳だった。僕らが手をつないで歩くのは他人から見れば違和感があるだろうし、キョウの服装の感覚はセンスがあるというより、目立つ。
「ないないないない、なんなんあれ」と言ったキョウの視線の先からどこの街でも見られるような高校生くらいのカップルが歩いてくる。男女ともに背筋が伸びていて、清潔な雰囲気の白いシャツに白いワンピースの笑顔がまっすぐに近づいてくる。と、女子の方がキョウを一瞥し、男子の方もキョウ、僕と一瞥し、すれ違った瞬間に後方で二人の笑い声が大きくなった。キョウは何も言わずに僕を握る手に力を込めて、頰を僕の左腕に沈めた。僕は振り向いた。ただ振り向いただけのつもりだった。
「いて。いででで、いたいって。なんだよ!」
「こらっ。一般ぴーぽーに怖い顔しないの!」と言ってキョウは僕の左の頰から手を離した。
「え? 俺怖い顔してた?」「してた」「てか俺だってピーポーピーポーだし」「どこがよ。れいは全然ちがうよ」と言ってすぐに歩き出したキョウの視線はあらぬ遠くへ向けられていた。
「ねーれいちゃん?」「なに?」「有名になってー」「どした? 急に」「れいは有名になるよ。そんな気がする」「え? なんで、なんでそんな風に思うの?」「勘?」と言ってキョウは春の日に陽だまりの結晶になってうららかな笑顔を見せてくれた。

 昼時のサイゼリヤは話し声にカトラリーと陶器の自由なパーカッションが重なって賑やかだった。僕がトイレから戻るとキョウの皿にはベーコンの細切れだけが残っていて、向かいに座った男はコーヒーをスプーンでかき混ぜていた。
 キョウが追加で注文したらしいマルゲリータが運ばれてくるとソウ平は今となっては冷めてるであろうコーヒーを一息に飲み干し「半分くれ」「嫌っ、あたしんだからね」「ケチ子、あばずれ」と兄妹らしいやりとりをして、素早くタバスコを振りかけた一ピースを皿から奪い取り、テーブルの上でキョウと顔を寄せてピザに食らいついた。僕は紅茶が空になったので二人を眺める以外に目のやり場がなく、一瞬ポケットのタバコに触れてみたけれどこの兄妹の食事を邪魔する気にはなれなかった。
「ねーれいちゃーん」と気の抜けたようなキョウは手に持ったピザを見ている。
「藤原のこと、気になってるん? もーなんもないよー」
「嘘つくのはよくないよね」と僕はキョウに言った。「わざわざさ、春子ちゃんと申し合わせて、春子ちゃんが好きどころか、キョウは海城くんとだって、知り合いみたいだったじゃん。鬼怒川さんのことだって知ってたんでしょ?」
「は? きぬがわ? 知らんし」「え? そうなの?」と僕が言い直すと「きーぬがーわさーん」と言ってキョウはメロンソーダに息を吹き込んで嫌味たらしく笑うと「ハコがモノプラン好きなのは嘘じゃない。こないだだって行きたがってたし」と落ち着いた声で言った。「トイレ」
 キョウは立ち上がってテーブルに置いていたケータイを掴むと、ソウ平と僕とを残してそそくさと行ってしまった。
「あれは何考えてるんか、よくわからん」ソウ平はタバコにオイルライターで火をつけながら言った。「あんたさ、女々しいこと言ってっけど、もう大人だろ? あれ、中坊だよ?」
「いや・・・ はい」
「未成年よ?」
「わかってます」
「さっきの俺の話さ・・・ まぁ、言いたいことわかってんべ?」と言ってソウ平は尖った鼻の頭をぽりぽり掻き、僕を顎で睨んだ。金のチェーンネックレスに金の腕時計とボーズ頭が見事に細めた目付きに力を寄せている。「騙される方が悪いんさ。頭悪いから騙されんさ」
「騙される側は法には触れてないですけど」と僕は言った。
「金がすべてよ」とソウ平は吐いた煙を目で追った。「金がなきゃクソみじめ、金があれば女も車も人もついてくる。俺だって好きでやってるわけじゃないんさ。ただ今のうちにどかどか稼いで、大物んなって、認められたいんさ。すげえ男だってさ」と言って椅子にもたれたソウ平の胸元でタイピンが光った。「あんただって一緒だんべ? バンドやってるんべ? バンドで有名んなって、金儲けして、女とやって、目立ちたいんしょ? 同じよ」
「全然違いますよ。ってか全然ちげーし」僕はソウ平のトカゲのタイピンを見ていた。
「あ? じゃあ何が違うんか説明してみーさ」と言ってソウ平はタバコを灰皿に押し付けた。
「それは・・・ いや、少なくともバンドは法には触れてないし、人を不幸にはしてない」と言ったとき、僕はあまりの惨めさに目の前に座る男を殺す方法を咄嗟に考えていた。
「ショボっ」と言って、ソウ平はテーブルに置いたタバコをポケットにしまい込んだ。「まーとにかくよ、あのやりまんと付き合ったら苦労すんのはあんたよ。まー俺が金持ったら助けてやっから」
 兄に散々言われても聞こえていないキョウが席に戻ると、ソウ平はむくりと立ち上がってジャケットの内ポケットから長財布を取り出した。
「おい、金。今回は三百だから三万な」と現金を取り出して「おい、あばずれ、こーゆー奴はなにすっかわからん。おまえわかってんのけ?」
「わかってるに決まってるっしょー。もーうるさい」キョウは金を受け取りながらそう言ったけれど僕は言葉を飲み込んだ。ソウ平は僕を睨むように見下ろしていた。
「おまえらも、逸平も、まったくわけわからんわ」とソウ平は内心を漏らした。「まーよキョウ、来月はもっとでっかく稼がしてやっから。お兄ちゃんに任せときなさい。ほんであんた、な、わかってんべ? な。ほんじゃ」なにが言いたいのか僕はわかっていたけれど返事をする気にはなれなかった。「もー、ソウ兄はだーから嫌なんさー。こわいっつーの。れいちゃん、ソウ兄はバカだから、気にしないで」とキョウが言った時にはソウ平は店を出ていくところだった。
「ソウ兄はね、不動産関係の仕事してるんさ。それで私もちょっと、手伝ってるんさ。お小遣いくれるかんね」
「こらこら、今嘘つくなって言ったばっかじゃんか。全然聞いてないじゃん」
「家族の悪口言わないでー」
「悪口って。悪口っていうかさ。おいこら、なんでちょっと笑ってるんだよ」
「れいちゃん、夏さータテマツ一緒に行こう? 足利の花火大会とか、手筒もあるし。あーあとランドも行きたい」
「ランドって?」
「ディズニーランドよー。ランドって言わん?」
「言わんし、急に話を変えるんじゃないよ。あのさ、お兄さんは法に触れてるんだよ? 捕まるよ」
「じゃあ法に触れなきゃ何してもいいん?」
「いいわけないだろ」
いいわけないのか? と実は思った。ソウ平に対して何も言い返せなかったのは、と考え始めると恐ろしくなった。
「とにかくキョウはもう絶対にやっちゃだめだ」僕は力を込めた。
「だって金ないんだもん。あたし」
「金ないって、普通にご飯も食べてるし、蒲団で寝てるし、学校も行ってるでしょ? 両親にだって失礼じゃんか、そんなこと言ったら。それに、失礼どころか泣くぞ。わかるでしょ? キョウなら。そんなにカネカネ言ってどうすんだよ。だいたいね・・・」
「れいはわかってないんさ」とキョウは鋭い目線で僕を遮った。「自分が裕福なことも、自分ばっかりきらきらしてることも。あたしは、あたしはさ。だってあたし夢もなんにもないんだよ?」
「いや、ある。なんにもってことは絶対ない。やりたいことだって絶対あるはず。それに詐欺は普通に犯罪です」
 キョウはまだ十四歳だ。焦ることはない、と石ころみたいな言葉をいくつか並べて、僕は伝票を持ってキョウを外へ促した。
「つうかあの人のコーヒー代も俺が払ってるじゃねーかよ」と外に出ても黙ったままのキョウに冗談のつもりで言ってみた。
「いーでしょー、そんくらいべつー。れいくん金あんだからー」
「またそれかよ。だからそんなにないんだって。まーいつかバンドでデビューして金持ちになったらさ、キョウに服買ったりしてあげるよ」
「期待してるー」と言って僕の左手にしがみつくキョウは僕の歩く方向へ従っていた。
 キョウの温度が身体に伝わると僕の頭の中では慌ててバンド演奏が始まった。


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