そこそこ喋れるコミュ障
「君って話してみると、おもしろいよね。」
もういろんな人に言われ続けて、気づけばアラサーだ。
昔から同じことを言われ続けているということは全く成長していないということに等しい。
僕はあまり人間関係を構築しない人、人とのつながりをあまり拡幅しない人
簡単に言うと「コミュ障」なのだ。
ただ、厄介なのがそこそこ喋れてしまうということだ。
「喋れるならコミュ障じゃないじゃん」
そう思う方もいるだろう。実際僕自身もそういう人に会ったらそう思うかもしれない。
しかし今一度考えてほしい。人と関わることを避けてきた、つまり、「会話」の経験値の少ない人がそれっぽく「喋る」とどうなるか。
あえて分けたが、「喋る」と「会話」は別だ。
「喋る」はどこに向けてでもボールを投げるだけでいい。受取り手が理解するのかは別として。
だが「会話」はキャッチボールだ。ボールをただ投げるだけでなく。相手のグローブに収めなければならない。さらに相手が投げてきたボールをうまくキャッチしなければ成立しない。
ボールを投げないタイプのコミュ障はそもそも何も生まれない。
そうは言っても社会人にまでなってしまったらある程度そういうスキルがないと仕事にならない。そこそこ喋れるコミュ障が生まれるわけである。
そう考えると、そこそこ喋れるコミュ障のほうが多いのではないかとさえ思えてこないだろうか。
以前いた職場の話だが、例えば誰かに業務を教えるとき、「僕できますよ」オーラ全開の同僚は後輩にジョークを交えつつ、口頭で流ちょうに引継ぎをしていた。
一方僕は、「会話下手が後輩にばれるのはやばい」という負の情熱のもと、死ぬほどの引継ぎデータを前々から作っていた。
しかし、会話は避けられないもので、その場面になればなるべく丁寧に教え、質問されれば丁寧に答える。その後輩は優しかったのでうなづいてくれていたが、的確にグローブに収められたかというと怪しいものだ。
きっと今も変わっていない。
それでも、会話スキル以外で補填する術も覚えた。
「図解」である。
僕は理解が遅いので、教えられたことも頭の中にイメージし繋げられなければ、誰かに教えることができない。ミットの中に収められず暴投ばかりを繰り返す絶不調の投手のように、支離滅裂な説明になる。
だが、頭の中でつなげることができれば、そのイメージを図化し、会話の補填ができた。僕だけに見える相手の頭の上の「?」マークもなくなっていくのが見えた気がした。死ぬほど引継ぎデータを作り図化力が鍛えられた賜物だろうか。
そんなことで何とか社会人としてはやれている。
でも、僕はおそらくこの「そこそこ喋れるコミュ障」と仲睦まじく、末永く幸せに人生を歩んで行くことになるのでしょう。僕の中のコミュ障君、仲良くやろうな。辛いときは慰めてね?
最後まで読んでいただいた方がいたら、本当にありがとうございました。
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