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人を殺そうと思ったことがある

人を殺そうと思ったことがある。 

たった一度だけ。心の底から「殺してやる」と思っていた。それは突然芽生えた感情だった。


相手は兄だった。小さい頃は仲良く遊んでいた。

一緒にゲームをしたり、一緒に近所の大学生の家に遊びに行ったり、一緒におじいちゃんに連れられて散歩をしたりもしていた。あまり覚えていないが、その頃はきっと兄のことが好きだったんだろう。

でもいつからか、兄のことが嫌いになった。


記憶を辿ってみても、何かきっかけがあったわけではなかった。

多分少しずつ少しずつ、季節がうつろうように、ぼくの兄に対する感情も徐々に変わっていったのだろう。

兄は昔からなんでもできる人だった。勉強も、スポーツも、恋愛も。どれもぼくにはないものを持ち合わせていた。

仲が良かった頃は自慢の兄だったように思う。でもそれがいつからか嫉妬心に変わり、嫌悪するようになった。周りから兄と比較されることが嫌だった。


「お兄ちゃんは〇〇なのにね」

その言葉が大嫌いだった。

特に中学生の頃は、思春期まっただ中ということもあり、特に兄を避けるようになっていった。兄は中学校で生徒会長をしていて、ほとんどの生徒や先生はぼくの兄のことを知っていた。

「生徒会長の弟が入学してくる」

そんな風に話題になっていたかは知らないが、軽い噂にはなっていたのかもしれない。生徒会長の弟はどんなやつだろうって興味があったのだろう。先輩や先生方から話しかけられることが多かった。

でもぼくのことを知るとみんな何かを悟ったような顔つきで、「お兄ちゃんは◯◯なのにね」と決まって言うのだった。


「うるせーんだよ」

心の中でそうつぶやきながら、無理くり笑った。

「いやー、全然似てないっすよね。お兄ちゃんに良いところ全部持ってかれましたわ」

そう言って先輩や先生方を笑かしてやった。何ひとつ勝てない兄に対しての自分なりの小さな反抗だった。


中学生時代は、「ぼく」という存在はいなかったように思う。

ぼくはあくまで「兄の弟」

兄という存在がいなかったら、誰でもない存在。そんなように思えてならなかった。兄とは2歳年が離れていたから、一緒に中学校にいたのはたったの一年だけ。それでも一年共に過ごすのが苦痛でならなかった。

一年が終われば比較されずに済む。そう思っていたが、兄が卒業してからも兄のことを知る同級生たちからは「お兄ちゃんは〇〇なのにね」と比べられた。そんな中学校が嫌で嫌でたまらなかった。

高校は兄とは違うところへ行こうと決めていた。

「お兄ちゃんと比較されない高校へいけば何かが変わる」

そう思っていたのかもしれない。


でも高校生になったあとも、兄との比較は止まらなかった。周りに比較されていた中学時代とは違い、比較してるのは今度は自分自身だった。

「お兄ちゃんは〇〇なのに、なんで自分は……」

中学時代に大嫌いだった言葉を、今度は自分で自分に浴びせるようになっていた。常にその言葉を浴びせ続けたせいもあったのだろう。自分のことがすごく嫌いになっていた。

顔も、身体も、頭の良さも、運動神経も、恋愛も。

自分のあらゆる部分が嫌だった。そんなこともあって、自分はダメなやつなんだと思っていた。自分なんてこんなもんだと思っていた。


ぼくが通っていた高校は、一応伝統のある公立高校だった。それほど学力が高いわけでも、スポーツが強いわけでもなかったのだが、ひとつだけ有名なことがあった。

それが「強行遠足」という行事だ。

毎年10月ごろに、全校生徒一斉に50kmの距離を1日かけて歩くというものだった。夜10時に学校の校庭に集合して、そこから県境を目指してただただ歩く、それだけの行事だった。

ほとんどの生徒は嫌がっていた。

「なんでそんなことしなくちゃならないの? 伝統とかクソくらえ!!」

そんな感じだったと思う。途中リタイアもOKだったので、テキトーなところまで行ってリタイアしようと考えている生徒が大半だった。


昔から長距離走は得意だったぼくは、この行事に少しばかり燃えていた。兄に何ひとつ勝てないぼくが、唯一勝てるかもしれない行事。

兄は違う高校だったから実際には勝ち負けなんてつけられないのだが、勝手にそう思って、勝手に頑張ろうとしていた。

「これは勝てる」

妄想でもなんでもそう思えるものがひとつでも欲しかったのかもしれない。何かにすがりたかったのかもしれない。

みんながテキトーに歩いてる中、必死に頑張って全校生徒の中で6位という成績をおさめることができた。


「これで兄に自慢できる」

そう心のどこかで思っていたと思う。

いつもより少しだけ誇らしげに家に帰った。兄とはその頃にはほとんど口をきかなくなっていた。ぼくが一方的に嫌っていたのかもしれない。空気が読める兄は多分話しかけないようにしてくれていたのだろう。

だから兄に向かって「今日の強行遠足で6位になった」とは直接は言えなかった。


家に帰ってからぼくは爆睡していた。夜通し、50kmもの距離を歩いたのだ。当然だろう。風呂にも入らず、布団もしかず、そのまま寝ていた。

「ダラシないから起きなさい!!」

そんなぼくを心配してくれた祖母が言った。疲れていたし、イライラしていたのだろう。眠りを邪魔されてつい声を荒らげてしまった。

「うるせーんだよ! 眠いんだよ!! ほっとけよ!!」

そう祖母に向かって言った。 それを聞いていた兄がぼくに対して怒ってきた。

「うるせーってなんだよ!! おばあちゃんに向かってその口のきき方はないだろ!!」

兄のその言動に対して、ぼくの中でプツンッと何かが切れた感じがした。そして、家の中にあったガラス棚を思いっきり殴って言った。

「いつもいつも偉そうにしてんじゃねーよ!! うるせーんだよ!!」

割れたガラスが家の床に散らばった。

母や祖母の声が聞こえた。でもなんて言ってたかわからない。そのあとは、兄と取っ組み合いの喧嘩になった。昔からそうだったが、喧嘩でもぼくは兄に勝つことはできなかった。その時だって、どんでん返しは起こらなかった。

喧嘩に勝てず、それでも怒りがおさまらずにいたぼくが向かった先は、玄関だった。 そして置いてあった金属バットを手にとって、兄のもとへ向かった。

「殺してやる」 

本気でそう思って、直接誰かに向かって言ったのは、これまでの人生で一度切りだ。 金属バットを片手に殴りかかろうとしたときに、母が「止めて!!」と叫んだ。それを聞いてわれに返ったぼくは、その場に泣き崩れた。

「ダセェ」

自分でふっかけた喧嘩だったのに、結局勝てなかった。実力で何ひとつ勝てない兄に、卑怯な手を使って勝とうとした。人として越えてはいけないラインを越えようとしてしまった。

後悔と恥ずかしさと情けなさと悲しさと……いろんな感情がぐちゃぐちゃだった。

「最低だ」

もともと自分のことが嫌いだったのに、余計嫌いになった。自分はなんてダメなやつなんだろうと自分で自分を責めた。

「もうダメだ。死にたい。生きてる価値なんてない」

人を殺そうとした後に、今度は自分の命を断ちたいと思った。泣いているぼくを母も泣きながら抱きしめた。

「ごめんね」

母はそれだけしか言わなかった。 それから兄とは余計口をきかなくなった。その時のことを謝るでもなく、なかったことのようにお互い全く触れなかった。 母はとにかく謝ってきた。こんな家族でごめんねって。お母さんが悪いんだよねって。

「違う。そうじゃない。」

そう思ったけど、何も言えなかった。母とも心がすれ違っていた。


大学に入ってからは、兄も地元を離れたし、ぼくも地元を離れたこともあって、全く話すことも顔を合わせることもなくなっていった。兄のことを全く知ってる人がいない環境に入ることで、次第に兄と比べることは少なくなっていった。

大学3回生ぐらいになったとき。母から電話がかかってきた。

「お母さんね……乳がんだって」

と少し涙声だった。

「そーなんだ、大変だね」

それしか言えなかった。

母が乳がんになってしばらくしてから、兄が大学を辞めた。 自営業を営んでいた実家を手伝うためだと聞いた。それを聞いた時に、また自分の中で兄と比べる自分がいることに気づいた。

「兄は母のためにできることをやっているのに、自分は何もできていない」

そうやってまた劣等感を感じるようになった。劣等感を感じつつも、自分は特に行動をするでもなく大学生活をそのまま送った。 

兄の後に続いて、兄の二番煎じになるのが嫌だったのだ。そんなこと言ってる場合ではないのはわかっていたけど、どうしても嫌だった。


手術や抗がん剤の治療でなんとか母の命は助かった。ただ今度は、兄がうつ病になった。母のためにと地元に帰ったが、ブラック企業に就職してしまい精神を病んでしまったらしい。

「うつ病……?」

とはじめはびっくりした。

ぼくとは違って、なんでもできる兄がうつ病になんてなるわけない。そう思った。 それでも母に色々と聞いていくうちに、兄も様々なことに悩んでいることを知った。

完璧主義に陥ってしまって、ちょっとした失敗でも落ち込んでしまうようだった。「できる人」と周りから期待される分それに答えないといけないプレッシャーが兄には常にあったようだった。兄は兄で悩んでいた。

ぼくが知らないだけだった。理解しようともしなかった。想像しようともしなかった。

兄はうつ病になることで、そのプレッシャーから少しだけ解放されたのかもしれない。


ぼくも兄もモヤモヤを抱えながら常に生きていたのだろう。

 夏の夕立の時のようなモクモクとした大きな雲のようなものを抱えていたのだ。雲の中に帯電していたエネルギーがいっぱいになると、出先を探して雷が落ちる。

それと同じように、ぼくも兄も抱え切れない何かがいっぱいになって、雷のように出先を見つけてあるとき放たれたのだろう。ぼくの場合は「殺してやる」という感情、兄は、「うつ病」という形で、放出したのだろう。

ぼくら人間にも避雷針のような存在が必要なのかもしれない。自分一人では抱え切れないモヤモヤから、少しずつそれを放出できるようなものが必要なのだろう。

悩みを聞いてくれる、自分のことを考えてくれる、話を聞いてくれる。そんな存在が必要だ。


ぼくは相談できる相手がいなかった。兄との比較に苦しんでいたことを誰にも話すことができずにいた。兄にはもちろん、家族にも友達にも先生にも話すことはできなかった。ずっと一人で抱えてしまっていた。

兄もきっとそうだったんだと思う。なんでもできてしまうが故にちょっとした失敗もできないプレッシャーみたいなものを一人で抱えていたんだろう。

お互いがお互い何かを我慢し続けていて、抱え切れず一気に放出されたのだ。


兄はまだうつ病を治すことができていない。

きっとまだうまく放出できずにいる。我慢しては、耐えきれなくなって、一気に放出して……きっとその繰り返しをしているのだと思う。

ぼくは幸いにも、放出できる人や場所を見つけることができた。

もちろん我慢することだってまだある。でも自分でコントロールすることができるようになって、少しずつ少しずつ放出するようになった。


兄に対して、ぼくは何かをしてあげているわけではない。一瞬だけだが、殺意を抱いた相手だ。そんなに簡単に関係性を良くしていくことは難しい。

でも少なからず自分や兄のように一人では抱えきれない何かを、一人で抱えようとしてしまっている人の力に少しでもなれたらいい。

正しいか間違っているかはわからないけど、それが今のぼくにできることだと思うから。


ぼくは誰かにとっての避雷針になりたい。

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