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親と教師に殴られ続けた子ども時代。子どもを殴ってはいけない理由

小学校までの記憶はほぼ無いが、さすがに小学校時代の事は多少は覚えている。というても、あまりいい記憶は無い。

小学校に上がると、担任が女の先生だった。当時はまだ20代だったんだろうか。この人がまた最悪だった。

昭和50年代、親も教師も暴力は当たり前だった。世間もそれを認めていた。その証拠に「あばれはっちゃく」というテレビドラマが放映されいて、僕自身、子ども心に怒られたら殴られるのが当然という意識が刷り込まれていた。

あの当時おそらくみんなそうだったのか、よその家庭の事はわからないが少なくとも僕は親父にどつきまわされていたし、親や先生に殴られた事が無いやつがいたのだろうか?中にはそんな大人もいたのかもしれないが、僕の周りにはいなかったように思う。

だからこそ、そんな時代に機動戦士ガンダムでアムロがブライトさんにぶたれた時に「オヤジにもぶたれたことないのに!」と言い放ったあのセリフは強烈だったし、波紋を呼んだんだろうと思う。

親が子どもを殴ってよいという思考になると、親は学校の先生にも「悪い事したら殴ってやってください」と平然と言うようになる。

「殴る」=「しつけ」と考えられていた時代だった。そんな時代の教師は平気で手を上げた。宿題を忘れたらビンタ。授業中に喋っていたらビンタ。何かあればビンタ。この状態が慢性化すると、今度は教師の機嫌が悪ければビンタという愚行が繰り返されるようになる。

そうなると、殴られる側は自分では「何もしていないのに」殴られる事になるのだ。こんな時に殴られるのは、誰でもいいわけでもなく、僕のように普段からふざけて、お調子者でおっちょこちょいな子どもが的になる。

この、機嫌が悪い時に殴るのはとかく女性教師に多かったように思う。その最たる人が僕の1年生の時の担任と2年生の時の担任で、不幸にも僕は3年、4年もこの二人の担任に受け持たれる事になったのだ。

なので、この二人が4年間も担任であった、小学校時代に楽しい思い出など無いという事になるのだ。今、街ですれ違ったら後ろから殴ってやろうかと思うほど、今でも憎い。そこには憎悪しか残っていないのだ。

仮にそれを理由に家で学校に行きたくないと言ったとしよう。当然の事ながら親父に殴られる事になるのだ。もはや暴力と恐怖の支配である。

ではそこで、なぜ反抗しなかったのか?と思われるかもしれないが、幼少期からそれが当たり前だったし、7歳8歳の体格で大人に歯向かうなどの発想は一切無かった。

先日読んだ、「龍と苺」の中で暴力をふるう主人公に対して、

「昔は・・・80年代はこんな子ばかりだった。 決められたことにただ従うってことに違和感を覚えながらどうしていいか分からない。 力は有り余ってるのに持っていき場がない。」

「強がって周りに反発して自分の存在を知ってもらいたい。行き場のない力をとにかく何かにぶつけたいんだ。 むしろ今どきの大人しいこより健全に見えるよ。 本来中学生なんて揉め事起こすのが仕事だからな」

といった、あの当時の中高生の暴力を肯定するような表記があったが、僕はあれがずっとひっかかっていた。大人が暴力で支配しようとしていたから、子どもが暴力で反発したのだ。

「龍と苺」https://moja.asia/dragon-and-strawberry/


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