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戻りたいのは人生のドン底

ああ疲れたな、と思った。ここにこうして書いてる私も主婦の私も、誰かに何かを伝えたい私も。別に何者でも無いのに何かになりたくて縛られているようで酷く醜い。カッコつけやがって、と脳が心臓辺りに吐き捨てる。胸の辺りがぐぅと鳴った。

思春期が終わっていないようで恥ずかしいが、自分はもうこのままなんだろうなと気付く。満足することなく、変わりたいまま、自分が嫌いなままなんだろう。「性格じゃん?」友人のマッシュは親友である私にそう吐き捨てる。グゥの音も出ない私が天を仰ぐ。諦めではなく単純にこういう人間だという話だ。

あまりに今が嫌で瞑想に迷走した末に何を血迷ったか夫にあるお願いをした。
「私のことは旧姓で呼んでください。姓名判断が当たりすぎています。気にしないでいるのも難しいので家庭内で別姓を名乗らせてください。あらためて、私のこういうものです。よろしくお願い致します。」と長年愛したMacintoshから丁寧に名刺を差し出した。肩書は専業主婦。夫は笑って受け取った。

何者にもなりたく無いのに、生まれた頃の名前に戻りたいなんて随分と自己愛が強いんじゃないだろうか。自分が嫌いだ嫌だと拗らせた自己愛がこの思春期の原動力と思うと全てに辻褄が合うようで居心地が悪い。ひどく悪い。

もっと素敵な偽名ではなくあえて旧姓を選んだのは、姓名判断としての結果が非常に良いから。その事実が嬉しいのと、そんな名を付けてしまう素敵な親に愛された記憶に縋りたいから。そして古めかしいことに、やっぱりあの頃は良かったななんて思うからだ。新しい名前になりたいわけじゃ無い、あの頃の自分なら大丈夫だと思える実感があるからだった。

その根拠となるものが不思議な話になるのだが、安心安全だからではない。むしろ逆であんなに無茶苦茶してたのに幸せだったからだ。無茶やる自信も苦茶に耐える元気も滅茶苦茶な勢いもあった。ダメでも良かった。ダメになりたかった。本当に人間としてダメになって辿り着いた先は自分の欲で得た自由だった。

今よりずっと不幸なはずなのに。誰にも愛されていないのに。ダメなものでも自分で選ぶ事が幸せだった。片想いの幸せとよく似ている。与えられるから幸せとは限らない。
自分でハズレを選ぶ事で全てを自分で受け取れた。逆に今はとても幸せだ。ただ、全てが与えられているから受け取るのが難しい。贅沢な生き物だなと思うが、案外これは真実じゃないだろうか。型通りの幸せだからといって満足するわけじゃない。ブランドばかりのカタログギフトに本当に欲しいものが載っていないように。みんなにハズレじゃない物で私が満足するかどうかは別問題だ。

今幸せですかと聞かれて
歴史を語って誤魔化したくない。
家族が居て、子どもがいて、
仕事でこんな事をして、だなんて聞きたくない。

今幸せですかと聞かれて
燃える命を答えたい。
ああ幸せです、と。
明日が楽しみで仕方ない、と。

むしろ
幸せとは言えないけど
面白いですね。と言えたら
どんなに自由だろうか。

あの頃燃えた命にまた火は灯るのだろうか。そんな考えがすでに湿っぽくて湿気っている雰囲気しかない。
湿気厳禁、火気推奨。
燻りさえ消えた消し炭が未だに燃えたがったまま湿った風を背中で受けている。

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