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1番戦いづらいもの(LGBTQについて思うこと)

日本のセクシャルマイノリティに対する、社会的、制度的暴力について述べたいと思う。セクシャルマイノリティの中でも特に代表的なものをlesbian(レズビアン=女性同性愛者)、gay(ゲイ=男性同性愛者)、bisexual(バイセクシャル=両性愛者)transgender(トランスジェンダー=身体上の性別に違和感を持った人)の4つに大別し、その頭文字をとった総称を「LGBT」とするが、これは大きくカテゴライズしたものであり、情報発信の上では短く普及しやすい一方で、この4つに当てはまらない人々によっては疎外感を覚えたりする場合があるということをうけて、questioning(クエスチョニング)という自身の性自認や性的指向が定まっていない人のことを指す言葉、その頭文字QをLGBTに加えてLGBTQという言い方がされるようになってきている。

 日本においての現状としては同性間の関係を承認する法律はなく、養子縁組制度が代替的な役割をはたしてきた。同性愛は違法ではなく日本の文化や国内で信仰されている宗教観的にも「LGBT」の人に対する強烈な反発は諸外国と比べて少ないと言える。しかし一方で、「ニューハーフタレント」と呼ばれる人々が「オカマ」、「オネエ」としてメディア特にテレビにおいて存在感を増しているが、そのあり方に疑問を感じることが多い。具体的にいえば「オカマ」、「オネエ」を自分たちと違う滑稽なもの、一種道化的なあり方として半ば嘲笑が入った笑いに変えている姿勢が多く散見するからである。そういったメディアへの露出によって性的マイノリティへの関心の窓口となり、その後の理解へと繋がる面も確かにあるとは思う。と同時に、現状では存在を認識し、迫害などは加えないものの、「受容する」という段階には至っておらず、それどころか【薄ぼんやりした差別意識】という、戦うにも対象として捉えづらいやっかいな敵としてこの日本社会に巣食っているのである。具体的な話をすると、強烈な反発がない分、欧米諸国においては同性結婚やシビル・ユニオンなどの制度が徐々に確立されつつある一方で日本のゲイ団体などからも同性結婚の実現などを求める政治的欲求は強くはうちだされておらず、同性結婚やパートナー制度の制定を巡った政治的闘争も発生していないために、現状が大きく動くということはあまりかんがえられないのである。

激しい抑圧だけが暴力として注目されがちであるが、家族や友人などの親しい人に受け入れられないということは当人にとってどれほどのダメージであるか計り知れず、ある種暴力にさらされていると言えるのではないかと考える。
 

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