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記憶にない祖父をYouTubeで見つけた話

はじめに


人類が未知のウィルスに直面し、世界中が停滞した2020年。そのおよそ3年のパンデミックの間、私は一度も日本に帰国することができなかった。
とは言っても、むかしから実家には寄り付かない性質(たち)なので、両親に会えないことはさほど辛くはなかった。
ただ、ひとつ気にかかっていたのはパンデミック直前にこの世を去った父方の祖父(ヤス)のお墓参りだ。宗教上の慣例から、亡くなって荼毘にふされるまでが早いので、どうしても彼の最期に立ち会うことができなかった。
そんな後悔からか、実家を出て十年以上経つのに今まで全く湧いてこなかった郷愁の念が、この年齢になって突然募りはじめた。
日々心の底で湧き上がってくるこの軽躁を抑えるため、私はYoutubeで自分の生まれ育った故郷の自然の景色を見ることに行きついた。
そんな折、突然おすすめに出てきたのが昭和44年(およそ54年前)にN〇Kで放送された在りし日の故郷を映したドキュメンタリー番組(非公式)だったのだ。
私はこの中に若かりし頃の祖父ヤスが映っているのではないかと期待に胸が膨らんだ。

3年ぶりの里帰り

念願叶って昨年の11月から12月にかけ、夫チャリ氏とともに3週間ほどの日本への帰国か実現した。それでもまだ、この流行り病が収束していなかったため、移動には最善の注意を払い、離島の実家には最低限の予定で3日しか滞在しなかった。
そんな限られたスケジュールの実家での1泊目の夜、みんなで夕飯を食べ、お出迎えムードも落ち着いた頃合いを見計らい、私はおもむろに自分のラップトップを取り出してきて、自分の両親に件の映像を見せることにした。
「これは昭和44年に制作されたNHKのドキュメント映像である。」とだけ説明し、両親はただ幼い頃自分たちが見てきた街の光景を懐かしみながら食い入るように見続けていた。
ところどころで「これは××さんではないか?」「まだ○○さんが若い!」など、知った顔を見つけては盛り上がる2人を横目に、私は早く2人が祖父を見つけはしないかとひとりそわそわしながら様子をうかがっていた。
映像も佳境に入り、メインの漁師と船仕事の映像に差し掛かったころ、いきなり父が「これはリキさんじゃないのか?」と、とある人物を指さした。母は目を丸くし、すぐさまその瞬間に戻すよう私に言った。
その後ふたりで何度かその数秒間の映像を見直し、「そうそう!この癖のある動き!この体つき!そしてこの顔の人間なんて滅多にいない!!!」と2人で大盛り上がりしはじめたのである。
私はその映像を見ながら、突然地面から頭の先へ電流が流れていくような、腹の底から震えたつような興奮をゆっくりと感じはじめた。このリキとは、私の母方の祖父なのである。


祖父リキ

母方の祖父(リキ)は私が1歳になったばかりの頃、バイク事故でこの世を去った。
そんなわけで私には彼の記憶が一切ない。ただ祖母の家にあった彫りの深い男性の白黒の遺影と、実家にあった1枚の古いカラー写真に写ったスーツ姿の彼しか見た事がなかった。
母曰く、リキは私のことをたいそう溺愛していたらしく、その強面と大きな体でいつも私をおぶりながら近所を練り歩き、私の鼻が垂れていれば口で鼻水を吸い、おもちゃも存分に買い与え、近所でも有名な孫にデレデレの祖父バカだったらしい。
しかしながら、残念なことに私にとって『祖父』と言ったらやはり記憶にない母方の祖父リキより、物心ついた時から隣家に住み、大人になるまで生き続けた父方の祖父ヤスの方だった。
なので、私は映像で初めて(カラーで)動く記憶にない祖父リキを見たとき、彼に対しての申し訳なさと、リキが生きた証にようやく出会えた喜びとが同時に激しく巻き起ったのだ

動画の中のリキ

リキは簡単に動画の人物と同一と確証できるほど特徴的な人間だった。
まずはその肉体。ごりごりのプロレスラー体系で当時40歳手前の平均的な男性と比べるとかなりの恵体だったことがわかる。それは定年退職後も変わらず、船を降りてからは町のソフトボールクラブで活躍していたらしい。
これがその映像の切り抜きだ(祖父以外加工済み)

次にこのゴリラのような彫りの深い顔だ。実子の母曰く、眉毛と目の間隔が狭いこのするどい目つきはまごうことなきリキの特徴らしい。


身内びいきの目で見たとしても、なかなかハンサムな男性ではなかろうか。きっと生きていたら今でも自慢のおじいちゃんになっていたことだろう。

その日から、私はいきなり記憶にない祖父リキに強烈な愛情が湧いてきてしまった。残念ながら愛されていた時の記憶はないけれど、その代わりにこのことがきっかけで、両親にたくさん彼の話をしてもらった。
おかげで生まれて初めて自分の血にも彼を感じ、自分の命を繋げてくれたことへの感謝と誇りの念で今も胸がいっぱいだ。今度お墓参りに行ったときは、祖父の名前にも思いを馳せて心の底からお参りしようと心に決めた。そんな2022年の冬だった。

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