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街の面白さ、と心を守るための部屋

先月ロサンゼルス(LA)に家を買った(子供たちのため)。(いや、勿論一軒家じゃないですよ、日本でいえば「ワンルームマンション」です。)

そこから3週間経っているが、そのうち2週間をLAで過ごしている。新しいおうちでのんびり、とか、そんな優雅なモノじゃない。「暮らせる場所」にするには、身体だけでなく心も休ませることが出来る場所にするには、準備が必要だから。そんなわけで買い物とDIYの毎日だ。ホコリだらけになって掃除機と雑巾とを抱え指を傷だらけにしながら過ごしている。


私は人生の多くを「ちょうどいい田舎町」で暮らしてきた。それらのどこも、街の大きさも「最新のモノや文化施設はちょっと少ないけど、幸せに暮らすにはちょうど良い」ってところだった。人間同士の距離も近すぎず遠すぎず、そういうのが「大きすぎない街」のいいところだと思っている。合間合間に東京10年とかロンドンとかNYCとかってのもあったけど(こう書くとなんかカッコ良く聞こえるけど、今思うとどれも私の人生のつなぎ時期だった)、基本は結構スローな時間が私の人生の基礎にある。

だからだろうか、あるいは都会に50を過ぎて「住む」ことを考えてなかったからか、LAの家は便利だけれど気忙しくて、今1つ落ち着かない。


町の発生、を時々思う。
施政者がいた場所だとか、「交易」がしやすいように人が集まり出来た場所なんだな、というのが 特にアメリカ西部の場所を見ているとよくわかる。いわゆる西部開拓時代の名残が そこかしこに残っているからだ。今に至るまでの時間と人々のいろんな気持ちが、ゴーストタウン化した場所からLAのような大きな街の辻まで降り積もってそこの地面となっている。

町は生きている、とよく言うけれど、まさにそんな感じ・・・住む人達が気持ち良くいられるように丁寧に手を入れられている場所は、ちゃんと今住んでいる人達だけではなく降り積もった時間や人間の気持ちが支え合って 良い街になっている。
これが「俺くらいいいだろう」「これくらい、なんともないだろう」っていうような雑さ(ゴミをその辺に捨てるとか飲み物とかを何も考えずにそのへんにぶちまけているとか)があると、その土地に染みついていたうちの昏いモノ、虚ろな気持ちみたいなのが浮き上がってきてその場所を侵食していく。不思議なものだ。街って亡霊とともに在るんだなと、当たり前に思うんだ。

都会にいると そういう昔からのもの(降り積もったなにか)があちこちで勢力争いをしている風景がよく見える。幸せな気持ちとか温かな思いとかが浮き上がる場所にはちゃんと今生きている人達の心遣いがある。今いる人達が「これくらい」をやる場所は地面から立ち上る空気がすこし澱むし、「これくらい」が増えて 時間の澱のなかの薄暗いものが浮き上がってきた場所はやっぱり「スラム化した街」って言われるような場所になる。

町は必要があって生まれるが、街はそこで暮らすひとたちの心持ちが作り上げる。町は形だけれど街には色がつく。
そしてどんな色であっても、透き通った気持ちの良い色もあればどんよりと澱んだ色もあって、それを混ぜたり無視したりするのも人間なのだ。

都会にはいろんな色が溢れすぎて少々疲れる。その沢山の色があることを
無視したり軽視している人達がいて、その人達の無意識の中に在る攪拌機みたいなものが それぞれの人が乗る車にくっついている気がする。彼らのとげとげしい運転の仕方が攪拌機をフル回転させていて、彼らが通り過ぎる街の空気の色を濁らせる。濁った空気に 今度は住んでいる人たちの心が影響されている。

何を言ってるかわからないかも。でも私の目にはそう見えている。
大都会の冷たさや怖さや面白さや美しさは全部、それらの混沌の上に在るのだが。

それは面白いけれどとても疲れる光景だ。だから今日も私は、私の家族が足を伸ばして楽になれる場所となるように部屋の手入れをしている。寒々とした部屋だったのを少しでも暖かくできるように、心が落ち着くしつらえを整えている。



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