見出し画像

楽じゃないから宝石ではない石の美しさが心に残るんだ。

空気の薄い中で坂道を登る苦しさは、身体や肺が酸素が足りないと悲鳴をあげるそれより歩ききろうという意思がざくり、ざくりと削られていくところにあるような気がする。歩けば到着する、そんな当たり前のことが「諦めてしまいたい」になるのはなぜだろう。意思がベリベリと外側から剥がされていく痛みが、酸素の回らない脚やフルで働く心臓の苦しさを越えている気がするんだ。

そろそろ起きる時間かと寝返りを打つ。薄目を開けて窓の外をみると、うっすら明るくなっている。そのまま瞼が閉じようとしたけれど、娘の目覚ましの音ではっと目が覚める。

うん、身体がその小さい音に反応して起きるっていうのは体長がまぁほぼ普通ゲージ(範囲)内ってこと。大丈夫だ。
コーヒーが出来上がるまでの間に顔を洗い、歯を磨く。コーヒーが入ったころに今度は夫の目覚ましが鳴る。娘はまだぼーっと椅子に腰掛けていて、夫が「何時に出る?」と寝ぼけた声で娘に話しかけても返事の声がしない。

娘の前にコップを置いて、オレンジジュースを注ぐ。朝ご飯用に買ってあったマフィンをテーブルに載せる。

「私もいくよ」

夫と娘に声をかける。
昨夜から決めていたんだ、朝に起きられたら一緒にトレイルを歩くって。

画像1

州内で多分一番好きな国立公園にいるのに、なんと私は到着した晩にひどい悪寒で目が覚めた。それほどの熱にはならないことは分かっていたが、結局翌1日怠さが酷くてほとんどベッドの中だった。あれもしたい、これもしたい、そんなことをぐるぐる思いながらホテルのベッドにもぐり込んで、そのままさらさらと沈み込む砂のなかに落ちていくかのように眠った。

楽しみにしていた「天の川を見る」ための夜の外出も、結局悪寒が戻って断念した。私のカメラを持っていった娘は戻ってから「キレイに撮れたよ」と声をかけてくれた。

どのルートを翌朝歩こうか、11時のチェックアウト前に歩いてシャワーを浴びてが出来るかな、という夫と娘の会話は うとうとしながら聞いていた。その話の中でのタイムテーブルは頭に入っている。あとは私の身体が言うことを聞くかどうかだけ。いや、きっと大丈夫。
呪文のようにその言葉を繰り返して、時々体温が変化するのを感じながら浅い眠りの一晩を過ごしたのだ。

画像2

朝7時半に歩き始めたのにもう日射しは殺人的に強くて、気温は陽の当たる斜面からぐんぐん上がっていく。

画像3

このスイッチバックを降りていく。日陰だからまだ涼しくて助かる。
脆く崩れやすい砂岩の道を、沢山のレンジャーたちがレンガを積んで土台を支えるようにメンテナンスしてくれてきている。だから子供でも、少々年のいった方でも安心して歩きにいけるのだ。有り難い。

ブライスキャニオンの不思議なオレンジの岩とピンク色の砂は、その先に、あの異型の巨岩の足許にあるものはなんだろうと、沢山の人達を呼び寄せる。

画像4

スイッチバックの途中でそびえ立つ岩壁の上を見ると、月。うっすらと夢のように眠たげにかかる。

画像5

最初と最後の坂以外は比較的平坦で、オレンジやピンク、白の「フードゥー」と呼ばれる奇岩の足許をきょろきょろしながら歩いていける。ものすごく乾燥しているのに緑も多い。フードゥーがなければただの森林浴か、という場所だ。
足許を小さなリスが走り抜ける。頭上には鷹なのか、時々悠々と旋回しながら地上の私達には興味もなさそうに岩場へ戻る。
フードゥーと木々の間を抜ける乾いた風は、まるで水の音かとおもうような音を立てる。風が、ここではいつも元気だ。

ハイキングは歩くだけと言ってしまったらそうなんだけれど・・・


ウットリするような優しいオレンジ色の岩肌に近付くと、それが沢山の色で構成されているのがわかる。気が遠くなるほどの時間、文字通り風雨にさらされ削られこの奇妙で美しい形になっていった。目の前にあるのはその長い長い時間絶え間なくふるわれた細かな自然の刃物が作り上げたもの。
足許には初夏に芽を出しぐんぐん伸びた草花があり まだ私の背と変わらない大きさの針葉樹から2−3mになる大きな木まで周りにはある。沢山のいろんな長さの時間を ここにある全てのものが内包している。

歩くだけで膝下まで薄ピンクの砂埃が舞い上がる。細かなこの砂だって何億年昔の海の底にあったものだ。標高2500mを越える場所が海の底だったなんて、今の私達が「分かってる」「知ってる」ということと 実際に起こってきたこととの差はどれだけあるのだろう。

あり得ない なんて言葉は、自分達の認識出来る世界の狭さを表しているにすぎない。

画像6

無事に歩き終えたら忘れてしまう。
最後の緩やかな登りが永遠に続くのではと思ったことを。肺をフル活用して心臓が破裂しそうに働いても酸素が充分届かない筋肉が悲鳴を上げ始め、脳がもう止まれ、と言うのを意思でねじ伏せる苦しさを。その意思も、ゴールが見えているのにざくざく削り取られて行く感覚を。

トレイルを終え、ロッジに帰る平坦で舗装された道には散歩する人が大分増えていた。ロッジ手前の松林のなかは気持ちの良い風が吹いて、またあの梢を揺らす風の不思議な音に包まれる。もうあの苦しさの記憶も薄れている。

そういえば体調の悪さもどこかにおいてきたようだ。

その頃には足許の灌木の合間をちょろちょろと走り回っていたリスや、遠くの方にチラリと見えたプレーリードッグの親子の頭や、坂道をあがっていく人間の重い足を嗤うこともなくただ眺めていた鷹の目だとか、そんなものだけが記憶の篩で残されていく。ロッジ前に置かれた靴ブラシでハイキングシューズについた砂埃を落とす度に きつかった、辛かった部分も少しずつこそげ落とされていく。

10年前に歩いた道を歩いたんだなと、靴紐を緩めながら初めて思い出す。あの頃はあれこれに一生懸命すぎて楽しんでいたつもりで殆ど何も篩の上に残らなかった。今日は多分、前日に動けなかった1日があった分、記憶に身体に染み渡るような隙間があったのかもしれない。

さぁ、最後の荷造りだ。帰りのロングドライブがまだ、残っている。


サポート戴けるのはすっごくうれしいです。自分の「書くこと」を磨く励みにします。また、私からも他の素敵な作品へのサポートとして還元させてまいります。