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旅の形

19歳と20歳の子供たちと旅をしている。

いやいや、自宅を離れた時点で旅でしょ、って言われたら全くそうなのだが、子供たちが大きくなってから・・・少なくとも一人旅なんかも出来るようになってからという意味だが、一緒に旅として動くことに新鮮さを感じている。

子供たちが小さい頃は移動中の彼らは寝る時間もしくは暇を持て余す時間だった。それが今は少しだけ「自主的に楽しむ」感覚が出てきたようだ。

でも同時に私と一緒だから「考えない」ことも多すぎる。ただ「親に」くっついてきている。もう自分でどこを旅しているか考えて欲しいのになぁと思っていて、ここにきて初めて「ああ、私はもう対等な大人同士として旅をしたいんだ」と気付く。
カルガモの親子の行進のような旅は、もういいやと思うのだ。


どんな旅をしたいか、は、本当に個々人で違うのだろうと思う。誰と行くかはもちろん、旅のスタイルに大きく影響する。
観光場所を網羅したい人もいるだろうし暮らすように旅をしたい、という人もいるのを知っている。都会が好きな人もいればリゾート地大好き、という人もいる。お仕事で旅する人には仕事というつけ外し可能な色味レンズみたいなのを持っているようなものだ。ああ、でも生活スタイルが違う時点でそれぞれが個々の色味レンズを持っているんだけれども。

私はそれぞれの土地とその土地の人間の歴史を絡めて知りながら歩くのが好きだ。そして宿は自分に戻れる場所がいい。
暮らすように旅する、という言葉に、そしてその言葉からイメージされる時間の使い方に憧れを抱いたこともあるが、今はわかる。その長めの時間の使い方では私は疲れてしまうだろうと。

自分の旅スタイルというのは、年齢とその時々の自分の興味とで本当に大きく変わる。旅に対しての自分の考え方は大きく変化してきたし、今だからどこに違和感を感じるかとか何を素敵かと思うかも結構はっきりわかるようになってきた。
そして今の私には「旅は旅、日常は日常」であることが大事なんだなと思える。

旅の仕方を教えてくれるものはほとんどない。提案があるだけだ。正解がないし、個々人の興味や好みは多岐にわたるものだからだろうが、その「自分の好きなもの」というのを理解するのはなかなかに難しいものだ。

こればかりは場数でしか実感レベルに落とし込めないものかもしれない。いや、いいんです。わからなくても楽しめるから。楽しみながら「ああ、自分にはこういうのが心に残って素敵だなと思えるのだな」というのを重ねればいいこと。


そういえば有難いことに旅という経験が多い人生を歩ませていただいているんだなと思う。
ずっと一人旅をしていたら分からなかった感覚かもしれない。私が立てた比較的余白だらけの旅程に とりあえずくっついてきている子供たちを見ていたら、ああ、私たち人間は旅の仕方も自分の好みの選別法も少しずつ会得していくものなんだなと初めて肚で理解した。
私の移動さきにくっついてくる子供たちは、体こそ大きくなったがまだ「親に連れられる子供」のままで、ひよこではないが親鳥と比べるとまだ羽の色も茶色の頼りないカルガモたちのように見える。

いつか、この子たちが自分で稼ぐようになり彼女らがアレンジした旅に私が連れて行ってもらうことも出てくるのかもしれない。そのとき私は何をどう思うだろう。

サポート戴けるのはすっごくうれしいです。自分の「書くこと」を磨く励みにします。また、私からも他の素敵な作品へのサポートとして還元させてまいります。