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ない、があるところ

人の気配ってもの凄く濃いなぁと、大陸の上を移動していると思うことがある。上手く説明出来ないが、ただ「ああ、人のいる場所が近い」と思うのだ。

私が住んでいるユタ州は砂漠と岩に覆われる高地だけれど、この15年で人口が急増している。それでもまだまだ辺鄙な場所は沢山あって、ごく稀にだが ちょっと人里離れると「まわりに人がいない」恐怖感というものを空気のなかに感じることがある。


多分これまで、人間の存在を全く感じられない場所に足を踏み入れてしまったことは数度しかない。・・・踏み入った、ではない、足を踏み入れてしまった、と自分の中の野生が警告を発するくらいの場所だ。そんなときは自然のただならぬ圧倒的存在感に全身の毛穴がひろがる気がする。

ネイティブアメリカンのひとたちが、部族を超えてみんなが自然の力や神の意志みたいなのを大事にした気持ちはこういうものなのかもなと納得する。

孤独感より畏怖に囚われている自分に気付く。野生のどんな生命でもいいから会いたいと思うし、虫一匹、雑草のひとつでも出会うと正直ほっとしている自分に気付く。それらは水があることを教えてくれるからだろうか。ただ在るという自然の存在感に囲まれて、自分の小ささや生命の神秘を考えたりする。

今ほとんどのひとが街で暮らし皆が使う交通手段で移動し誰かが作った道の上を歩く。求めれば水はある場所だ。恐怖を感じるくらい自然の存在しか感じない、なんてところに行く事はそうそうないし、それでいいんだとは思う。だが時々ふとあの畏怖感を思い出すのだ。あの全身で「何か生命の印」を探す感覚を、記憶の中で再生する。

生きるために必要なわけではないけれど、生かされていることへの感謝と、生きるということが奇跡的なことだと思い出すためには、自然への畏怖感を知るというのはもしかしたら贅沢な経験なのかもしれない。

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