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「それでも諦めない。」第3話

父・康志

ガシャン、と強い音がしたと思ったら反動のような静けさが事務所から流れ出る。
久し振りだな。そう、口の中でつぶやいて、俺は仕事を中断し立ち上がると工場の事務所の方に向かう。
ドアをあけると机の前で頭を抱えている父がいて、窓際の戸棚の上に置いた鉢植えがひっくり返っている。戸棚の下にはバインダー留めされている各種の車の仕様説明書と プロ向けのエンジニアリング書が乱雑に落ちている。

父さん・・・麦茶飲む?

何ごともなかったように父に話しかける。酷いときはこの時点で俺になにか飛んで来たりすることもある。

あ?・・・ああ、いや、いいわ。父さんちょっと、家の方に戻るけどいいか?

大丈夫だよ、こっちは俺たちで。

俺は何でもない顔で投げられたバインダーやその専門書なんかを片付けながら父を見遣ると、またあの無気力なぼーっとした目でどこを見るともなく動きを止めた父がいた。爆発的な怒りではなかったらしい。父は少しすると小さくはっとして、俺の視線に気付いてばつの悪そうな顔をした。

二年半も経てば もう父のこういう突発的な怒りや激しい行動に驚いたり怒りを感じたり悲しくなったりすることはなくなってきた。いや、悲しいけれど、これはPICSっていう後遺症からの行動だって分かってから、俺は淡々とやり過ごすことができるようになってきたんだ。良い事なのかどうかはわからない。でも俺たちが騒いでどうなることじゃない。みんなで受け入れて慣れていくしかない、この部分での父の回復があるのかどうか分からないけれど。

・・・父さんなぁ、この仕事は天職だって信じてたんだ。・・・機械が俺に話しかけてきてる気だってしてたし。

そんな風に昔から繰り返す話をまた言う父の手の中には、どこからきたものか、ナットがひとつ握られている。子供の頃からよくこんなフレーズを聴いていた。ちゃんとパーツパーツの具合をみてやればエンジンがいい音を響かせて、全体がオーケストラみたいにきれいに調子をあわせて動くんだぞ。

こんなひとつのパーツも、ちゃんと入るべきところにあれば輝くんだ。・・・なのに。

これも父がいつも言っていた言葉だ。部品ひとつひとつに役割がある、っていう話を父は俺が小さい頃からよくしてくれた。

「ほら康太、今の音はどこか間抜けだろう?だけどこんな小さなパーツを1つ、きちんと締めてやるとほら、キレイな音になる。すごいだろ?なんでもない顔をした部品も、収まるところに収まって大事な仕事をするんだ。俺ら人間だってそうだよな。父さんはなぁ、直接こういう部品達と会話して、生かしてやれる場所にいれてやるのがきっと、生まれ持っての仕事だったんだ。」昔はそんな話をしながら父の手は魔法のように動き、場所や締まり具合を調整された部品は何ごともなかったかのように全体の一部になった。いつもそれを、スゴいなぁと思いながら見ていた。


家が貧しくて勉強を続けられなかったんだと父はよく言っていた。それでも好きだった機械の仕事に着き、働き始めることが出来たのは幸運だったし運命だったといつも話していた。中学卒業後、父は近所の車整備工場で働きながら独学でいろんなことを吸収していったそうだ。学歴というものを持たないだけで、エンジニアとして働いていた俺から見ても父は本当に知識が豊富で賢い人だった。
この工場は、そこの先代社長さんが引退するときにそんな一生懸命な父に譲ってくれたものだ。先代社長さんには子供がいなくて、それもあったのだろうが仕事に関してのいろんなことを父に教えてくれたのだそうだ。父はその人に丁寧な仕事を教わりながら そのうち趣味として自分でも色んな機械を組み立てあげて楽しむ、ということを始めていた。俺も小さい頃は父の組み立てた、自動三輪車みたいな乗り物に一緒に乗ったりした。もちろん公道は走れないから、工場のトラックを借りて少し遠くにある大きな空き地までもっていって。夏の夕方、暗くなる直前に少年のようにワクワクしている父と組み立て上げた小さな車を動かす。父との楽しい思い出だ。

機械が大好きだった父には、父のファンとも呼べるお客さんが沢山いた。よく「こんな改造をしてみたいんだが」みたいなことを持ち込むお客さんと頭を突き合わせて相談していたり、大分夜遅くまでそういう特別の依頼にとりかかっていたりした。
彼らはやがて父の近しい友人達となり、自動車愛好会みたいなものをつくってよく集まっていた。いい歳をした大人たちが、少年のような目をして夢を語ったりどこの新しい車のなにそれがいい、みたいな話をお酒を飲みながらしているのは息子としても羨ましいくらい楽しそうだった。あの頃は母がニコニコしながら「そろそろお相手はお茶でもいいわね、味もわかんなくなってるでしょう」と沢山つくった麦茶を出したりしていたのを覚えている。俺の家が一番賑やかで楽しかった時期だ。

母の交通事故死はしばらく父を仕事から遠ざけたが、それでも僕を育てるため(と、よく福田さんが俺に話してくれた)工場の仕事はこなし続けた。自動車愛好会はなくなったようだが、そのあたりの友人たちはなにかと我が家に来ては父と飲んだり話したりしていた。「母さんだってみんなが来てるほうが好きだろ」と、仏壇に手を合わせている父がつぶやいてるのを聞いてきた。

福田さんにいわせると、父の修理の手早さと不具合を見つけるその目、そして誠実な仕事は「格好いいというか天才というか。真似たいけどあの域にはなかなかいけないよ」というものらしかった。そんな話を聞くのは息子として嬉しかったし、俺がエンジニアになったのもそこからだ。そして大手自動車メーカーのエンジニアになった俺のことを、父は自分の事のように喜んでくれた。友人達に話してまわっては親バカぶりを発揮していたと聞いた。父からは工場は福田さんとその後育つ修理工に任せていきたいと聞いていたし、その言葉のうしろに「お前は自分の好きなことをしていいぞ」という父の応援も感じていた。

以前の父はエネルギーの塊みたいなひとだった。新しい知識を入れることにも貪欲だったし、新入社員として迎えた若い矢島くんがすいすいとコンピュータやタブレットを使いこなすのをみて、そしてそれが自分がコンピューターを使うより早いことにショックを受け、50にして「ブラインドタッチを覚えたぞ」と威張っていた。それだけではなく、矢島くんにどんどんスマートフォンの使い方も聞いて、「おい康太、スマートフォンでこんな色んな事が出来るんだぞ」と見せてきたときには俺より色んな使い方を知っていて正直びっくりしたものだ。

そして父はとても穏やかな人だった。俺や矢島くんに技術や知識を教えていくのも理路整然としていたし、なにより辛抱強く相手が育つのを待つことができるひとだった。福田さんは他の修理工場から そんな父の教え方、知識、人柄にひかれて移ってきた人で、俺にはもちろん矢島くんにも「いいか、あの人の下で学んで仕事ができるってことはすごいんだぞ」と何かにつけ言っていた。俺も会社に入って思ったが、仕事が出来る人がみんな教え方が上手な訳じゃ無いし、あの「育つまで待つ」ができるのは本当にすごい事だ。

あの入院の後、半年ぶりに家に戻れることになった父はしかし、もう体力が落ちすぎて自分だけでは生活できなくなっていた。2ヵ月ほどリハビリもしたのだが、思うように回復しなかった。歩行器を使えるほど腕の力も戻らず、結局家では電動車椅子を使っている。父を支えるために俺が仕事をやめて家に戻ったが、それでも週に2回、ヘルパーさんが入って父の入浴や父の身の回りの手伝いをしてくれるようになったのは本当にありがたかった。

退院の前に「会社をやめたよ」と話したら悲しそうな顔をしながらも「・・・ありがとうな」と父は言った。「そんなの、父さんのせいじゃない、いや、父さんのことがあったからではあるけど、俺っていう部品はきっと、ここで全体を上手に動かす役割があるんだよ」と言うと「そうか、そういう見方もあるか」と言ってくれた。

福田さんも矢島くんも、父の帰宅を心から喜んでくれた。矢島くんなんて退院してきた父が俺につかまりながらタクシーから降りたら泣きながら拍手してくれたくらいだ。「社長、生きてて本当によかったなぁ、ここに戻ってくれて本当にうれしいよ」と、福田さんも涙目だった。

だから退院後がこんなに大変になるだなんて、誰が思っただろう。あとは回復して以前の日常に戻るだけ、と誰もが思っていた。いや、もしかしたらそう期待していたのは父が一番そうだったかもしれない。俺は時々、思い返す。未来を考える、なんて考えることもないほど、とにかく今日という日を前に進むだけだったこの2年半を。
そして恐らく、一番がっかりして一番全てのことにフラストレーションが溜まって、一番どうしていいか分からなくなって諦め一色になっているのは父、本人なんだろう。


広木先生と仲間たち

「もしもし、小林康志さんのご自宅で間違いないでしょうか。私、万津よろづ総合病院医療連携室の患者様サポート担当、藤枝亜衣と申します。」

亜衣さんからの最初の電話は20x6年の8月の暑い日だった。「外来」として父と俺が呼び出されて、久し振りの広木先生との短い面談から帰った夕方。それこそ帰宅して、水を飲もうかと台所に向かったところで電話がかかってきたのだ。

「広木先生からお話があったかと思いますが、これから定期的に私が小林さんにお電話をかけて、現状確認といろいろな疑問を受け付けたりそれを担当医やヘルパーさんに伝える仕事をいたします。お帰りのお時間を考えこの時間に電話をするよう連絡がきていました。」

へぇ、会計済ませた時間あたりからの逆算なのかな。連携室は最近のこういうシステムをどんどんいれてるのかも、帰宅までの時間なんて単純な計算だしもう世の中でスケジューラーみたいなの、どんどん進んできているから。

「それで、担当サポーターとしての自己紹介と、今後サポートさせていただく中でいろいろ個人情報に関わる質問もさせていただくことがあるけれど、情報を当方の記録に残してほしくないときはお答えいただくなくてもいい、ということを先にお伝えするためにお電話いたしました。ええと、今お電話口に出てくださっている方は康志さんのお身内の方でしょうか?」
「あ・・・はい、息子の康太と申します」
「ありがとうございます。私の確認することの出来る医療情報にはご長男、という文字とご年齢が39歳ということのみあるのですが、ここに康太さんのお名前を追加させていただいてよろしいでしょうか。もちろん緊急時以外この記録は私藤枝と担当の広木先生以外見ることはありません。」

広木先生はICUの担当の先生だったが、最近連絡がきて「ICUを退院した方のための外来みたいなものを始めた」ってことで今日久し振りにお会いした。入院の頃から思ってたけど、なんかしょっちゅうコンピュータをカタカタいわせてて医者というよりプログラマー風だった。聞いたところによるとそう見えるのも当然、もともとITエンジニアを目指したらしいけど大学在学中に受験し直して医者になったとか。でも外科病棟に移ってから会うことはなくなったのに、今ごろ在宅の担当は広木先生?・・・まぁ、相談出来る人が多いのは悪くないけど。大体外科外来のフォローは打ち切りになって長い。きっと病院もいそがしいから、色んな先生の手をかりてるんだろう。

「はい、大丈夫です。康太の文字は父の康志の1文字目に、太郎の太です」
「ありがとうございます。ではこちら、保存させていただきます。小林さんの息子さんのことは私共から姓、名、いずれでお呼びするのがよろしいでしょうか。と申しますのは、時々患者さんご自身の話と混乱することがありますので。」
「名前で大丈夫です。」
「承知致しました。では康太さん、本日は退院手続きなどでお疲れでしょうし、このくらいでお電話を終わりにさせていただきます。明日また細かいご説明などのためにお電話いたしたいのですが、何時頃におかけするのがよろしいでしょうか。おそらく30分くらいお時間頂戴することになります。」
「ええっと、出来たら朝9時前とかって、お願い出来ますか?父が戻ったとはいえ、工場のほうの仕事があるので。」
「承知致しました、朝なら8時、8時半と予定出来ますが」
「あ、では8時で。ありがたいです。工場はいつも7時半に開けるんで、朝の内に職員さんたちと話をしていろいろ準備しておきます。」

いつものことだが、質問したかったことは沢山あったのに忙しさにかまけてそのまま忘れたり、まぁいいか、ってなってしまってる。思い出したいというのもあるし、ちょっと藤枝さんとの電話の前に福田さんにも何を確認しておけばいいかとか、相談しておきたい。

「拝承いたしました、では明朝8時に担当サポーターの藤枝亜衣がお電話いたします。本日は外来受診おつかれさまでした、康志さんともどもゆっくりお休みくださいませ。」

ほんの数分の電話だったけれど、藤枝亜衣さんという担当のひとがとても仕事ができそうなひとだ、ということはわかった。そして電話の向こう側の声に、耳に心地よい音に、なんとなく笑顔になっていた。

「電話誰だった?嬉しそうじゃないか。」
「うん、病院の連携室から。今日広木先生が言ってたじゃない。その担当のひと、藤枝亜衣さんってひとなんだって。挨拶の電話くれたんだよ。イイ感じのひとだった。」
「そうか」

父は久し振りの外来で疲れたのか、首をぐるんと回し、大きな伸びをひとつした。

「なんだか疲れたかな、頭が重いわ、もう寝ても良いか?」
「あ、そうだよね。父さんのための新しいベッドもちょうど届いたよ。かなり遅いけど還暦祝いかねた誕生日プレゼントだからね。」
「おい、何年前のことだ、還暦なんてまだ病気になってない頃じゃないか」

そう父は笑って「でもありがとな」と言う。

これまでレンタルしていた医療用ベッドはあまりにも味気ないので奮発してもっと「普通」な感じの電動ベッドを買ったのだ。退院した父の寝室はすでに二階からダイニングの向かい側の、仏間だった6畳の部屋に移してある。畳だったのを俺が自作でフローリングにDIYして段差をなくし、この作業は父の退院にギリギリ間に合った。結局車椅子は手放せない、と分かった時、玄関から工場までの緩いスロープもつけた。お金がかかるからこれもDIYした。自分で言うのも何だが、なかなか素晴らしい出来だ。

「介護ベッドか、悪いな」
「あ、気に入ってくれた?父さんジジ臭いって嫌がるかと思ったよ。なんか最近はカッコいいのがいっぱいあるんだけど、結局使い勝手で選んじゃった。もうすこし良くなってきたら柵とか外すし。」
「ありがとう。や、母さんただいま」

父はいつものように真っ先に仏壇の中の笑顔の母さんに手をあげて挨拶した。そうやってこの日は穏やかに終わった。

父の退院後、父の筋力は少しずつ戻ったが車の修理を再開できるほどではない。いや、それはまだ些末なことだったと今なら言える。
一番の問題は、父の知識が「散り散りに」なってしまったことだ。もともとエンジニアとして働く俺と対等、もしかしたら開発の歴史や昔からの色々な車のクセなんかを知ってることを加えると俺よりいろんなことを知っていた父だったのに、今はその知識はまだらに抜け落ちている。そのせいで作業の前後のつながりが分からなくなることが多いようだ。

言葉に関してもそうだ。ふと言葉が「水の上に油を垂らしたときの散りぢりになる感じ」で分解するらしい。父は言いたかった事が分からなくなり、落ち込んだり怒ったりした。

それらの全てに父自身が大いに困惑していた。今思えば入院中もその片鱗はあったけれど、外科の先生が家に帰ったら戻りますよ、良くなっていきますよって言ってたし俺たちもそうだろうと思ってた。福田さんも矢島くんも「ちょっと長めの秋休みとっちゃったから、忘れちゃったんですよ。そのうち勘を取り戻しますって」と笑っていたが、すぐにどうやらそんな簡単なことではないらしい、とすぐ誰もが気付いた。

そして父は、退院後の自分の身体が時間が経ってもなかなか思うようにならないことにも相当苛ついている。それはそうだろう。あんなに器用さと賢さで 普通の人の倍くらい仕事をこなせていたんだ。でも今は筋力そのものもそうだが手や指の細かい動きができなくなったようだ。
それでも もともとの穏やかな性格が、あるいは辛抱強さが、父に自分を諦めることをさせなかった。

もうひとつ父にあった大きな変化が、本当に突然に暴力的になることだ。人格が入れ替わるとか、誰かが乗り移るみたいなことが本当にあるんじゃないか、と思うくらい、今までの父とは全く違うひとのようにキレる。退院直後のころなんて触るなとか殺す気かと叫んで暴れていた。いや、あれは単に暴れているのか?そしてその原因が全く分からないところがまた、とても困るところだ。対処のしようがない。
そして数時間も経てば本人はなぜそんなに怒ったのかがわからないまま周囲の様子をみてガックリとなるのだ。
時々もう八方塞がりな気分になってしまって、俺もここから逃げ出すことをずっと考えていた。もちろんそんなのダメだ、と自分に言い聞かせていたけれど。

父が退院してからの2年弱で沢山の変化があったが、ちょうどその頃だった、広木先生に呼ばれて初めてICU退院後外来なるものに行ったのは。30分ほど時間をかけて父と俺の話を聞いた後、広木先生は

「小林さんにはもう少し、別な形での病院からのフォローが必要と思います。外科外来は終わっているでしょうから、これから3ヵ月に一度私の所に来て下さい。それからその間の状況やフォローのために2週間に一度、サポートの電話連絡がいくようにします。このサポーター、というかコーディネーターは、私と、ヘルパーさんと小林さんご一家の間で情報を十分に共有できるように動いてくれますのでよろしくお願いします。まぁ、チームでがんばりましょ、という感じです。」

と言った。そして帰りがけに思い出した様に、

「あーそうそう、ヘルパーさんも来週から変わりますから。」

と伝えてきて、それが今お世話になっている飯田さんというわけだ。

あれから8ヵ月。
広木先生と仲間たち、このチームが俺に、そして父や福田さん、矢島くん含めた我が家に、少しずつまともな形で動き出す力をくれている。まだ時々がたがたとリズムが狂ったりもするけれど、疲れてしまっていた俺たちが少しだけ先のことを考えられるようになってきたのだ。


↓ 第4話


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