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可愛い・好きとは違う所に追い詰められることもある。

子供は自分にとって何物にも代えがたい、というような文章や画像を見るとちょっと心がちくちくする。

いや、大事です。大事なんだけど、だから「いっつもべったり」に幸せ〜〜とか思えなかったし そんな私に冷ややかな視線が送られることがあるのも知っていたから言えなかった。

昔の封印した気持ちを、たねさんのこの文章に思い出した。

これは、子供が大事とか好きとかとは別の次元にあるんだ。

ぐだぐだした生産性のない時間。
ただやり過ごしたい時間。

この言葉を たねさんは心に血を滲ませながら絞り出したに違いない。

私の子育てはもう9割終わっている。

強く自認しているけれど、私は本当に子供を放任して育ててきた。こう書くと「忍耐強く、子供を信じて育てていらしたんですね」と言われることもあるんだけれど、違う。子供を信じて、はそうなんだけれど、基本「自分がやったこともやらなかったことも、その結果は自分に跳ね返る」のを身をもって学べと後ろから見ていただけだ。最後に他者に謝るのと、行きすぎた言葉や態度(つまり子供のための防衛ラインを越えたもの)が子供に向けられたら前に出て守ることだけをしていた。

そこに到達するまで・・・つまり子供が小学生になるくらいまで、だけれど、私は「子供のために持って行かれる時間」と「在りたい自分像」との間ですり減った。出来ないことが多い幼児時代。私自身のタスクは優先順位をつけてこなせても、子供のそれは常に緊急事態で急にタスクが現れる。殆どのことがオトナにはくだらなく見えても彼らにはどれもとても大事。

あの頃、急ぐべき事がなくても 子供を隣に座らせて何もしない「待合室の長椅子に座っている」ような時間がものすごくあったのを覚えている。自分のものにならない、なり得ない時間。「そこにいる」「相槌をうつ」「笑ってあげる」が仕事。

子育てなんて大嫌いだ。

言葉にしなくても、その一文がつねに頭の中でぐるぐる回っていた。
それを口に出すことのないよう、私は子供達と距離をとってきただけだ。

少し前に昔からの友人にそのことを指摘された。「逃げるために他のことをチャレンジしつづけていたよね」と。
そうかもしれない。でも「逃げるため」は結果的にそうなっていただけだ。

いつだって「私が私であるため」だった。

結果的に子供から子育てから逃げることになったとしても、そこに頭のてっぺんまで浸かっていたら私は内側から溶けて崩壊したにちがいない。
そのくらいいつも切羽詰まっていた。
そのくらい子育ては簡単じゃない。

子育てに求められるものを簡単なことだとか単純だとか、それをできる人は言う。私には簡単じゃなかった。判別の難しい組織切片を様々な染色などを加えて検討して診断に辿りつくほうが、ずっと簡単なことだった。


それは 子供への愛情とは別の所にある、「自分が自分であること」と「子供という個人の心と身体を育てること」を両立させるチャレンジだった。


非難したいひとには言わせておこうと思う。
私はずっとぎりぎりを生きていた。
だから 若いお母さん達のギリギリ具合は 人それぞれで甘えなんかじゃない、ということは知ってる。

綺麗事を言うことは簡単だ。
「いつも家に居るんだから家事を完璧に」
専業主婦にそれを求める言葉を若い頃から同僚なんかの口から聞いていたけれど、それを出来るのはごく一握りのひとだ。
甘えや堕落ではなく、出来ない、ということが誰にでもある。
そこを全部 甘えだ に帰着させる風潮はなんとかしたい。

誰もがロボットみたいにタスクをこなせるわけではない。
個性は、他の部分で誰も出来ないことを平気でやってのけたりする。それでいいと思う。


子供が幼いときの面倒をみる、というのは愛情だけじゃできないし、親をしていると時々疲れ切って何もできなくなる。自暴自棄になったりする。

社会がもっと、「子育てはこうあるべき」「親はこうあるべき」から1歩離れて、「あの人はあの距離で何とかしのいでいるんだな」とか「第三者だけどこれなら手伝える」が増えていくことを願う。・・・・あの頃助けすら求められなかった自分を思い出しながら強く願っている。

サポート戴けるのはすっごくうれしいです。自分の「書くこと」を磨く励みにします。また、私からも他の素敵な作品へのサポートとして還元させてまいります。