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母と私の手の中で炸裂させた爆弾

後で読もう、と思ってたこちらの記事、今さらながら読ませて頂いた。

なんて素敵な。ちゃんとお母様には野やぎさんの沢山の気持ちは届いてる。私も孝行できるときになにかプレゼントすればよかった。


で。
トシを取れば取るほど感謝が溢れてくるのが親にたいして、なのだとは思うけど、同時に「酷い言葉を投げつけた」率が高いのも親に、ではないかとおもう。

あれが何のきっかけでそういうことになったのか覚えていないけど、怒られるときは黙り込みただ泣いているばかりだった私が、そのときは(もう成人してたからかもしれないが)たった一言、母に爆弾を投げつけた。

「私はお母さんみたいにはなりたくない」


そこにいた姉には「なんてコト言うの!謝りなさい!」って即座にもの凄く怒られ、母は黙った。私は何も言わず中座したと思う。

何に対してどういう意見を言われたのだろう。本当に覚えていない。覚えているのは、「爆発した途端沢山のナイフが四方八方に飛び散って、その人を内側からこれ以上ないほどにズタズタに引き裂く」そんな言葉を母に投げつけたということだけだ。


くくりで言ったら専業主婦だった母は、ある意味私とおなじように自分の居場所、肩書きで苦しんできたのにちがいない。お茶・お花・日本舞踊の師範となったのは20歳前後だったらしい。けれど教えたり教えなかったりを繰り返したのはお茶だけだった。(それすらも私は教わらなかったけれど。)
4人の娘を何事もなく育てる、というのは 片手間ではできなかった ということなんだろう。

けれど子供の私には、そういうことは見えていなかった。
別にそれはそれで良かったけれど、掃除洗濯をやりきれなかった母に「どうして何にもやらないの?」と思ったことは確かだと多う。手伝いもしたが基本的にはそれらは母がやるもの、と思っていた。
お母さん、という役割の「世間のつくった形」にハマれない母を、愛していたけれど理解できなかった。そして、そんな母から批判されることに(少なくともその年令では批判に受け取れてしまったのだろう)耐えられなかったんだろうと思う。


4年前母は他界した。私は結局、あの時のナイフ入り爆弾のことを謝らなかった。いや、謝ったかもしれないけど、原因を覚えていないので「酷いことをいってゴメンナサイ」くらいの、言葉への謝罪だったと思う。謝ったのは夢だったような気もする。よくわからない。

私にとっての救いは 家族全員で母を看取ることができたこと、そのとき母が流した一筋の涙が「ありがとう」だったことがわかったことだ。多分全部許してもらえた。だけど、言葉の刃を向けた思い出は 私のなかで一生消えることはないんだろう。

言葉は諸刃の剣、それを教えてくれたのは母だったと思う。そしてそれがどれほど相手に、そして自分自身に酷い傷を残すのかを、実際に身を呈して教えてくれたのは母だった。


亡くなってからの母はとても近い所にいるような気がしている。異国にいるのに。距離がない世界に行くって、そういうことなのかな。
そしてこれを書いていても「わかってる、わかってる」と言って貰えている気がする。まさに仏様 笑

傘を贈った野やぎさんみたいな孝行な子供じゃないけど、言葉のこわさを教えて貰ってそれを大事にしてるとは思う。それで孝行の代わりとして受け取ってくれていたら嬉しい。




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