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儘ならないこととコントロールすること

猛暑警報(猛暑で注意報じゃないもの、初めて見たかも)が出た。

私の住むソルトレイクシティエリアは一応高地なので、朝晩は気温が落ちる。それでも今24℃。普段6月半ばなら最低気温が20℃を越えることはほとんどない。異常な暖気が入ってるというのを、1日で一番過ごしやすい時間に実感する。
毎朝7時前というのは庭で鳥たちの声が煩いくらいなのだけれど、今朝は静かだ。朝日の中で普段なら輝く様な庭の緑も、今日はなんだかくたびれた色を見せている。早朝に動かしているスプリンクラーなのだが、既に庭の様子が「水、足りません」っと言っているようで、さっき2度目を手動で動かしてきた。

今年はいつもより庭の植物などに時間を割いている。この暑さなのでスプリンクラーの調整や簡易シェードの設置などをしていたのだが、昨日はどうやら軽く熱中症になったらしい。昨夜は怠さが抜けなくて、喉の渇きが落ち着かなくて、体調としては60%という感じだった。一晩寝て90%まで戻った感じだけれど、鏡の中の私は庭の植物たちのようにどこか元気が無い。

最近、「儘ならない」ことをよく考える。
今でいえば季節外れの猛暑。山火事の危険はかなり高くなるし外で活動しているひとは体調を崩しやすい。草花は簡単に枯れてしまう。

儘ならないことのなかで私達はいつも生きている。儘ならないことの瞬間最大風速が出そうなときはじっとアタマを低くしてやり過ごす。動物も植物も一緒だ。

それを少しでも快適にすごそう、と人間はいろんな機械を発明したり使ったりしているわけだけど、それで儘ならないことが無くなるわけではなくて、やり過ごし方の手札が増えただけだ。もちろん無いよりは手札の数はあったほうがいい。

私が育ってきた時代って、こういう儘ならない状況に対応出来る基礎体力(体力でも学力でも、稼ぐ力でも)をつけて「人生をコントロールしましょう」ってどこでも言われていた気がする。自分の人生をコントロールすることがカッコ良い、みたいに見せられていたし。

でも今は思うのだ、それってコントロールっていうのかなと。備えておくことは、自分の人生という長い道を走るのに自動車を手に入れてメンテナンスして、冷暖房が効くようにして、もし可能なら悪路を走ることの出来るタイヤを手に入れて・・・みたいな事だと思うのだが、それを持っていることがすごい事でも 人生の目的でもない。ハンドルを切るというのはまぁ、自分で選ぶことなのでコントロールと言って良いかもしれないけれど。なんであんなに、「コントロール出来る状況」がもてはやされていたんだろう。一体なにに向かっていたんだろう。

「快適」がキーワードだったのかもしれない。快適さを目指して、何をするにもスマートに・・・快適に暮らすのがコントロール出来ていることだ、みたいな。
うーん、無いよりはあったほうがいいが、快適さはそれだけでは空虚にみえる。

そもそも、人生をコントロール出来ることが幸せ、という図式が間違っていたのではと今は思う。人生でコントロールし難いことなんてその辺の石ころの数くらいある。

もしかしたら、他人からは私の歩んだところって充分コントロールした人生に見えているのかもしれないが、自分で振り返れば儘ならないことに翻弄され続けていたことしか覚えていない。いや、「儘ならないこと」だったからこそ手放すタイミングを考えたり手段が他にないか悩んだり進むことの出来る道でやれることを考えたりした覚えしか無い。
儘ならないことは基本的にどうにもならず、自分を、自分の考え方を変えることしか出来ないものだ。それは自分の意思で相手や状況をどうにかするコントロールではなく、自分というものを粘土細工のように形を変えるコントロールだ。

儘ならないことを乗り切る連続こそが人生で楽しいと思えることなのかもな、と今は思っている。

6月という時期に真夏以上の酷暑、そのなかでまだ成長しきっていない植物、猛暑の日に崩しやすい体調。どれもこれも儘ならない。儘ならないからあれこれ考え、手を変え品を変えやってみる。上手く行くことは3割もないかもしれない。でもやる。

50をすぎてもこういう儘ならないことだらけだ。その儘ならないことにぶつかる度に自分の知識や経験のなさを実感するしいろんな情報や智慧をかき集める。ぶっつけ本番でやってみる。

そしてそんなあたふたした生き方も私の日々も、充分面白いし味があると、自己満足している。ケ・セラ・セラ、Que sera, sera。それでいいんじゃないの。




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