テラスハウスの罪悪感 -花が残した「宿題」について-

人気恋愛リアリティー番組であるテラスハウス2019-2020において木村花さんが亡くなられた。5月23日時点で死因は不明。大方では自殺という憶測がされているが確定ではない。

非常にショッキングな出来事だ。言葉にならない言葉を言葉にしなくてはならないという思いに駆り立てられ、ほぼ衝動的にパソコンに向かった。

ただしこの記事はアンチを断罪する意図でも、製作者を非難する意図でもないことを最初に断っておきたい。なぜショッキングだったか、僕たちはどのように振る舞うべきかを分析したいがための記事である。

テラハとの出会いについては個人的な理由により割愛するものの、4月から見始めてそれはもうハマった。


仕事をしながら1日6時間は観ていた。仕事、寝る、食べる、テラハを観る以外のことはほぼしていなかったのではないだろうか。会社の社内報でもテラハについて熱く語ったほどだ。

新しい配信があるごとに月曜日はワクワクして過ごし、あえて配信されてもすぐには鑑賞せず1日寝かせてから観て、さらにYouTubeで未公開映像を観る。そして最後の締めとして副音声ありでもう一度その週の配信を鑑賞するのが日課だった。しかしこの日課もなくなるだろう。


※結果的に誰も止めなかったのでMacBookを購入しました。

僕は花の訃報をSNSで知って声にならない声が出てしまった。炎上しているらしいというのは認識していた。しかしそこまで大きな炎ではなく、まさか人が人を殺すほどのものではないと正直に言って思っていた。だから花がどんな中傷をされているのかも調べることはなかったし特に気を留めてもいなかった。


花の死について5月23日時点のTwitterでは以下のような言説がメインだろう。

誹謗中傷をしていたアンチを非難するつぶやき

製作者側の対処が遅すぎたこと

一般人から突然「有名人」になってしまったこと

僕はこれらの指摘に概ね同意するものの、どこか違和感が拭えなかった。正しいことを言っているように思えるけれど本質的な指摘だとは思えなかったのだ。

一方で、自分を含め僕の周囲では少し異なる反応のように見えた。

具体的には加害者意識と罪悪感だ。どこか遠い世界の遠い話ではなく、とても身近な出来事としてショックを受けている人が多かったように思う。ショックが大きすぎるがゆえに言語化が追いつかないだけで感覚的には多くの人に共通する反応かもしれない。

なぜこれほどまでに花の死は多くの人にとってショックだったのだろうか。それを考えようとすると僕はブレヒトの「叙情詩的演劇」を思い出す。僕は専門的な教育を受けた訳でもなく、その分野について研究をしていた人間でもないので以下についてはすべて「らしい」を付け加えて読んでいただきたい(ずるい)

ベルトルト・ブレヒトは1898年アウスブルク出身の劇作家・詩人である。ミュンヘン大学時から文学活動を始め、1922年に上演された「夜うつ太鼓」で一躍脚光を浴びた。代表作は『三文オペラ』『肝っ玉お母とその子供たち』『ガリレイの生涯』など。第二次世界大戦中はナチスの迫害を逃れて各国で亡命生活を送り、戦後は東ドイツで劇団ペルリナー・アンサンブルを設立、死去するまで活動拠点とした。

(Wikipedia「ベルトルト・ブレヒト」の項から引用)

ブレヒトの「叙情詩的演劇」はアリストテレスの「戯曲的演劇」と対比される概念だ。通常、僕たちが演劇を観る時には観客として鑑賞することが求められる。そして観客を役に感情移入させつつ出来事を舞台上で再現することでカタルシスを起こさせるような演劇が「戯曲的演劇」と定義される。

しかしブレヒトの「叙情詩的演劇」では観客と演者の線引きを曖昧にさせることで演劇を日常にまで拡張させる。そしてそのような表現を用いることで「異化効果」(日常において当たり前だと思っていたものにある手続きを施して違和感を覚えさせることで、対象に対する新しい見方、考え方を提示する方法)を狙ったと言われている。(『表現のエチカ』桂英史p.96~97から一部引用

僕たちはなぜテラスハウスに熱狂し、なぜ花の死にこれほどまでにショックを受けたのか。ブレヒトの「叙情詩的演劇」を援用すれば、テラハ製作者は「叙情詩的演劇」を意図せず作り出してしまった。僕が日常にテラハを拡張させていたように多くの人にとってテラハは日常そのものだったかもしれない。そうすることで限りなく観客と演者の境界線を消すことになってしまったと言える。

だからこそ花が亡くなったことで「観客」として振る舞っていた傍観者たる自分がその「演劇」に参加させられていた、という意識により僕たちは加害者意識と罪悪感を抱く。

この時、僕たちは2つの罪悪感を抱いていることに気が付く。

1つ目は悪口を言ってしまった罪悪感。これは花に対してだけでなく、社長や夢に対する悪口も含まれるだろう。

2つ目は人の苦しみをコンテンツとして消費してしまった罪悪感。花が、社長が、夢が苦しんでいた(らしい)と知りながらもそれを楽しみにして消費してしまったという思い。

前者の罪悪感は「叙情詩的演劇」であったことに起因するものだろう。「観客」としてではなく実は当事者=「演者」として日常的に「演劇」に参加していたという罪悪感。

しかし後者の罪悪感はどこに由来するのだろうか。そもそも僕たちはエンターテイメントをコンテンツとして消費せずに生きていくことは可能なのだろうか。

実はコンテンツは「経済的な価値に着目した比較的新しい概念」だ。

インターネットで送信し、消費の対象となり得る文化的表現すべて」がコンテンツと定義される。ちょうどwindows95が発売された頃に出てきた、インターネットとは切っても切り離せない関係だ。

『ポップ・カルチャーを語る10の視点』p.215からの引用

※ちなみにAmazonで買うよりも版元のアルテスパブリッシングで買うほうが値段が安定します。

一方でエンターテイメントはどうだろうか。人間関係のエンタメコンテンツとして古くはあいのりが思い浮かぶ。もっと人間の根源的な欲望で言えば、社内での噂話も人間関係のエンターテイメントと言えるかもしれない。

語義に忠実に沿うと「人を楽しませる」行為全般を指す。この定義には2つの意味が含まれている。

1つ目は人をハッピーにすることで楽しませること

2つ目は人の不幸でハッピーになること

テラハに関して言及すれば少なくともコスチューム事件以後は明らかに後者であっただろう。

コンテンツ、そしてエンターテイメントという2つの言葉からわかることは人間関係を、しかも人の不幸を笑って消費する衝動がテラハには隠れていたことだ。

そう、僕たちには人間関係をエンタメコンテンツとして消費するには覚悟が圧倒的に足りなかったのだ。僕たちはあまりにも気軽に人間関係をコンテンツとして消費することに慣れてしまっていた。そしてその「演劇」に参加させられていることにあまりに無自覚だった。


その覚悟が足りなかったという自覚があるからこそ、僕は安易にアンチを叩く人になることができない。アンチを誹謗中傷するアンチの「再生産」は全力で防がなければならない。もしそれができないならば花が亡くなったことが浮かばれないのだ。

花は僕たちには大きすぎる「宿題」を残して「卒業」してしまった。僕たちは「宿題」を通して学ばなければならないことがたくさんある。そしてその学びはきっと社会を良くするものであるだろうという希望を込めなければならない。

花が残してくれた「宿題」を前にして、それでも、なお、僕たちは「観客」であろうとする覚悟はあるだろうか。

今は悲観よりも希望を求めたい。

そしてテラハをコンテンツとして消費してしまったという罪悪感を覚えている人にこそ、その罪悪感を言語化する手助けができればという思いを込めてこの記事を書いた。


R.I.P 木村花

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