見えない労働
働かない私
これまで言葉にしたことはなかったけれど、ずっと言葉にしてみたかったことがあります。
私は、働くのは好きだけど、できるだけ働きたくない、という矛盾した気持ちを持っています。
好きなことだけしていたい、というのとも違い、ただ、自分に集中していられる時間を最優先したい、という表現の方がしっくりきます。
我が家は、小さな塾をやっています。
生徒を直接指導するのは、講師である夫の役割です。
私の役割は、色々あるし、常に変化するので、よくわかりません。
夫のやるべきことは、とても多いです。
対して、私のやるべきことは、とても少ないです。
一時期は、夫が楽になれる、もっと直接的な手助けをした方が良いのだろうか、と考えたこともありましたが、私には、それが最善とは思えませんでした。
直接的な手助けをすることだけが全てではない、と、私の心が言っていました。
なぜそう考えるのか、なぜその考えを信頼できるのか、自分自身にも納得のいく説明はできなかったのだけれど、今なら言葉にできそうです。
世界をデザインする
「観る者」として、自分の世界に自分の心を映す実験、みたいなことをしていたようです。
DTPデザインやイラストを描いたりする仕事を長くしていたせいもあってか、イメージをかたちにする、デザイン思考が癖になっていることも影響していると思います。
私にとって、生きることは、仏師が木から仏像を取り出すように、イメージの世界から現実の世界へ産み落とすようなものだ、という感覚があります。
心でイメージした(決めた)ことはそうなる、という仕組みを、私は、知らなかったようで知っていて、そうして、夫婦関係や塾を育ててきたのだなあ、と気づきました。
仕事の量、質、お金、出会う人、充実感、他人からの評価など、「こう」と決めたことは、不思議と、全てかたちになってきました。
「引き寄せる」のではありません。
「当然そうなる」のです。
私たちは、五感をフル稼働させて人生を体験しているので、「自分と他人」という「分離」の感覚を疑うことは、至難の業です。
目を閉じ、心と繋がれば見えるものも、目を開き、外側に囚われた瞬間に、見えなくなることがあります。
私たちは、他を知ることで、自分を知ることができるため、「他と比較する」という基本的な機能は、無くなりはしないのでしょう。
しかし、大事なのは、比較して見出した「違い」を、どう使うかです。
優劣や善悪などの価値判断に使えば、分離の感覚はますます強くなりますが、自分の現在地を知ることに使えば、心のプログラムを変更することに役立てることができ、それによって、世界との一体感を感じられるようになっていくように思います。
平和的にわがままに
私は、ひねくれものなのか、常に世の中の「普通」を疑ってきました。
そのつど、本当にそうなのかなあ、と考え、自分の心の声を聞き、自分だけの答えを見つけてきました。
そして、心で決めたら、そうなってきました。
私のしていることは、とても少ないです。
他人からは、そのように見えるはずです。
でも、実は、色々しているのかもしれません。
内助の功、なんてものではありません。
夫は、私の人生のすてきな道連れですが、夫には夫の世界があります。
私は私で、私の見たい世界を見ているだけです。
とはいえ、まだまだ浮きまくる覚悟が足りず、遠慮がちなところがあるので、ぼちぼち解放していけたらと思っています。
もっとどんどんいけよ、と、ツンツンつつかれているのを感じる、今日この頃です。
というわけで、最後に、今の気分にハマる一曲を。
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