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ごほうび

ある塾生の話

塾の生徒が、塾へ来るなり、

「先生、学年50位以内に入るには、どうしたらいいですか?」

と、夫に聞いてきたそうです。

どうやら、学年50位以内に入れたら、ゲーム機を買ってもらえることになったようです。

この話を聞いた夫は、もちろん現実的なアドバイスをしたそうなのですが、内心、ごほうびにつられてやってもなあ、という思いが拭えないようでした。

私の場合

確かに、ごほうびが設定されている時だけ頑張って、ないときは頑張らない、という子の方が、多いような気はします。

でも、いつも意識がどこか別のところにあるようなその生徒が、自分から「攻略法」に興味を持つことに繋がったのは、喜ばしいことなんじゃないか、と、私は思いました。

自分の学生時代はどうだったっけ。

そういえば、私は「ごほうび制度」とは無縁だったなあ。

そういう時代だったこともあると思いますが、両親も祖父母も、たいして勉強をやってこなかった人たちなので、私は、学校の勉強に関して、あれこれ世話を焼かれたことがありません。

当然、テストで良い点がとれたからといって、ごほうびをもらったこともなく、そもそも「ごほうび」という概念のない家庭だったのかもしれません。

あったのかな、どうなのかな。

とりあえず、私の記憶のどこを探しても、それらしきものは見当たりません。

だからといって、勉強を全くしなかったかといえば、それなりにやっていましたし、成績もそれなりでした。

なぜ私は、ごほうびがなくても、それなりに勉強することができたんだろう。

授業を聞いていればそれなりに理解はできたし、学校で出される宿題はやるものだと思っていたので、その通りやっていたら、それなりにできた、のだと思います。

そういう風になれたのは、両親も祖父母も、家族全員が職人気質であり、「背中を見て自ら学べ」という空気が、産まれた時から家庭の雰囲気としてあったからかもしれません。

そうは言っても、やはり「ごほうび」らしきものは、私の中にもあったのだと思います。

ノートをきれいにまとめてひとりほくそ笑んだり、宿題の空欄を全て埋めて快感を得ていたり、そういうことが、自分にとってのごほうびだったのかもしれません。

私は、たまにクロスワードパズルの雑誌を買って、一気に一冊を解き終えるほど、パズルが好きです。

私にとって、学校の勉強は、クロスワードパズルみたいなものだったのかもしれません。

でも、争いごとには全く興味が持てず、順位に一喜一憂することはありませんでした。

5教科のうち4教科は、そこそこ上位に位置していたのに、全く興味が持てなかった社会は、後ろから数えた方が早いくらいでした。

社会が大胆に足を引っ張ったせいで、平均値がぐーんと下がってしまったのは、今思えばもったいなかったなあ。

あのころ、ごほうびを設定してもらっていたら、私も、社会と向き合う気になれたのだろうか。

夫の場合

夫はなぜ、ごほうび制度に難色を示すのか。

「ごほうびには、切ない思い出があるから」だそうです。

塾の生徒と同じように、子供の頃、成績が良かったらゲームを買ってもらえる、という話になったことがあったそうです。

すごく頑張ったけど、期待したような評価がもらえず、家に帰って、号泣しながらお母さんに報告したと。

お母さんも、泣きながら結果を一緒に受けとめてくれて、がんばったからと、結局ゲームは買ってもらえたそうなのですが、買ってもらったゲームで遊びまくってはみたものの、子供心に「なんか違う感」は拭えなかったそうです。

この経験から、夫は、「頑張っても報われないこともある」ということを知ったのだそうです。

以来、自分からごほうびを求めることも、お母さんから提案されることもなく。

後日談として、このタイミングでは期待する結果には繋がらなかったけど、次のタイミングでは、すんなり期待していた結果が出たそうです。

この話を聞いて、まず私が思ったことは、この経験から、悪知恵を身につけず、自分の良心に従うことを覚えた夫は、偉いなあ、ということでした。

その後も自分なりに勉強することと向き合ってきた夫には、それらの経験と、そこで味わったたくさんの感情があるからこそ、生徒の気持ちを察して、自分の経験を伝えることができるのだろうと思います。

先生という仕事は、夫が出逢うべくして出逢った仕事なんだなあ。

ごほうび制度は是が非か

人間の資質がどのようにして決まるのかはわかりませんが、資質というものは、やっぱりあるのだろうと思います。

学校の勉強にあまり興味を持てなかった私には、そこで試行錯誤した経験も感情も、その記憶すらもあまりないので、夫のような人生の流れにはなりません。

言うまでもないことですが、あえて言ってみると、夫には夫の資質・才能・素質があり、私には私の資質・才能・素質があるのです。

何が言いたいのかというと、ごほうび制度は是か非か、というようなことを言いたいわけではなく、どんなことも人によるよなあ、と、シンプルにそう思ったよ、という話です。

ただ、私自身の経験を振り返ってみて思うことは、ごほうびを欲する時は、本当はやりたくないことをやっている時が多いので、自分に無理をさせているかもしれないということは、自覚しておいた方が良いような気がします。

無理をすることで学べることもあるし、無理をしないことで学べることもあるし、それもまた人によるので、つまり、たぶん何でも大丈夫なんじゃなかろうか。

無条件に満たされていい

この頃は、欲しいものがあれば、あまり悩まずにすぐ買うし、やりたいことがあれば、できる限りすぐやるようにしています。

夫が何か欲しいと言えば、すぐ買いなよ、と背中を押すし、何かやりたいと言えば、すぐやりなよ、と背中を押します。

40歳を過ぎて、人生の残り時間を意識するようになり、躊躇したり悩んだりする時間はもったいないな、と思うようになりました。

私たちは、自分を喜ばせるためにはそれなりの条件を満たさなければならない、といったような教育を受けてきたため、そうした思考癖に陥りがちです。

基本的に「条件付きの愛」を受けて育ってきたため、自分に対しても、それを採用してしまうのだろうと思います。

頑張ったら、ごほうびがもらえる。

いやいや、頑張らなくても、もらえてもいいじゃないか。

我が家のあり方としては、そんな風に、夫婦2人で、きゃっきゃきゃっきゃと遊んでおります。

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