わがままに生きる
前回の記事で、こんなことを書きました。
この部分について、ちょっと掘り下げて書いておきたいと思ったので、書いてみようと思います。
武道との出会い
私が武道と出会ったのは、27歳の時でした。
高校の同級生だった夫とSNSを通じて再会し、なんだかんだで当時夫が習っていた空手の稽古を見学しに行くことになり、なんだかんだで空手をやることになりました。
私は当時、マッサージ師として働いていて、東洋哲学や東洋医学にハマっていました。
オタク気質な私にとって、芯の部分で気の合う人というのは、当時の私にとってはとても珍しく、そんな珍しく気の合う夫を育てた「武道」というものに興味がわいたのです。
また、マッサージ師として少々感じすぎてしまい、他人のエネルギーに振り回され、そんな自分を制御できず疲れきっていた時期でもあったため、「肉体の鍛錬を通じて精神も鍛錬する武道」に可能性を感じたということもありました。
他人を救う前に、まずは自分を救わねば。
そう思っていたのです。
まさか自分の人生で、空手を経験することになるなんて、想像すらしたこともなかったのですが、なんだかんだで黒帯までとりました。
よくやれたなあ、私。
と、確かに自分が経験したことなのに、今だに他人事のような感覚があります。
井の中の蛙大海を知らず
この経験は、私を強くしてくれました。
肉体的にも、精神的にも、強くなったと思います。
私は、空手が好きです。
基本稽古が特に好きで、みんなでやる正拳百本突きの爽快感などは、思い返すと今でもわくわくするし、うずうずします。
でも、私を強くしてくれたのは、空手だけではありません。
空手にまつわる「人間関係」も、私を強くしてくれました。
私を最も悩ませたものであり、私の人生に最も役立つ教訓を与えてくれたものです。
私は、武道とは、私の世界をもっともっと広げてくれる、懐の深いものだと期待していました。
しかし、所詮は人間が集う世界です。
武道自体が持つ懐の深さを知りたいのに、そこに集う人たちが、お互いの狭い懐の中で縛りあっているだけ、という現実がありました。
「井の中の蛙大海を知らず」という言葉があります。
私は、自分が「井の中の蛙」だから大海に出てみよう、と思って武道を志したのですが、大海に出たつもりが、そこもまた「井の中」だったのです。
私の師は、こここそが「大海」だと言いました。
しかし私は、外側を否定して、内側のみを肯定する、それこそが「井の中」である証明のように思えました。
このあたりで私は、私の求めているものは、他人に教えてもらえるものではないようだ、と気づきました。
自分の道は、自分にしか歩めません。
「圧倒的な孤独と向き合う覚悟」こそ、私に必要なものだったのだ、と気づきました。
ここに至るまで、ずいぶん悩みましたし、ずいぶん苦しみましたし、ずいぶん時間がかかりました。
でも、私にとっては必要な回り道でした。
そこで、キラッと光る宝物もたくさん見つけました。
突然の満腹感
空手を辞めたあとも、武道の世界観は好きだったので、一度やってみたいと思っていた弓道をやってみました。
このときは、完全に「娯楽」として考えていました。
弓道は、やってみると、想像していたよりもずっと面白いものでした。
しかし、ただただ武道の世界観を娯楽として楽しみたかった私にとっては、弓道の世界もまた、窮屈に感じられるものでした。
それでも、弓道に関しては「娯楽」を貫いて楽しもうと思っていたのですが、ある時期から突然、「もうお腹いっぱい」になってしまったのです。
膨らみきった風船が弾けるように、コップに注がれた水があふれるように、「もうムリ」になってしまったのです。
一応、続ける努力は試みてみました。
が、どうしても心が受けつけない。
どうやら、これまでのステージは強制終了となり、次のステージに進まなければならないようだ、と悟りました。
守破離
「守破離」という言葉があります。
この考え方でいくと、このときの私の状況は「離」にあたります。
このとき、30代半ばくらいだったでしょうか。
考えてみれば、義務教育に始まり、会社に勤めたり、転職してからも誰かの下で働いたりと、自分以外の誰かが作った「型」にはまって生きてきました。
マッサージ師としてフリーで働き始めたものの、武道と出会い、そこでもまた、誰かが作った「型」にはまって生きざるを得ませんでした。
誰かが作った「型」に自分をはめて生き続ける限り、それは「他人を生きる」ということになるのではないか。
一体いつまで他人を生きるつもりなんだ。
武道に対する突然の満腹感は、自分の心が「ストライキ」を起こしたのだ、と私は認識しています。
このときから、「自分を生きる」ことに反することに対して、拒否反応が出るようになってしまいました。
ニュース、ルール、常識、流行、伝統、同調圧力、固定観念などなど。
それ以来私は、「組織に属する」ということができません。
ああ、自営業でよかった。
わがままにあたたかく
こんな「わがまま」な私ですから、ちょっとやそっとの他人のわがままに対して、腹が立ったりすることはありません。
わがままに生きたら協調性を失ってしまうのではないか、なんていう不安もかつてはありましたが、逆でした。
自分がわがままだからこそ、他人のわがままがかわいく見えて、それを尊重したいと思えるのです。
自分が自分でいられることに満足しているので、自分でいられない人の苦しみや痛みが、ものすごくよく見えるし、わかります。
一般的に言われる「わがまま」は、「自分を生きる」という意味の「我が儘」ではありません。
他人を攻撃するような「わがまま」は、満たされていない心のありようです。
自分が満たされていないから、他人に「私を満たして」と求めてしまうのです。
自分を生きる「わがまま」は、めぐりめぐって、ちょっとやそっとでは揺らがない協調性を与えてくれます。
「わがまま」に生きられる人が、もっともっと増えるといいな、とひそかに願ってやみません。
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