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日常の奥行き

地球の重力

近ごろ、言葉というものが、すごく窮屈に感じます。

もっとこう、感覚で、パーンと伝わらんもんかな、とやきもきしたりするのですが、すぐ先に、そういう世界が近づいてきているからこそなのかもしれません。

そう思うと、こうした制限のある世界で生きられる今が、かえって貴重であるように思えて、もっと面白がって楽しんでおこう、なんて気にもなってくるから不思議です。

ちょっとした考え方ひとつ、ですね。

生きるって、みんな普通にやってるけど、すごいことなんですよ、きっと。

日常の細かいことに気がつけば気がつくほど、人間って生きてるだけで普通にハイパーなんだな、と思えてなりません。

地球上のあらゆる遊びに飽きてしまったセレブな人たちが、宇宙旅行に魅力を感じるように、宇宙から見たら、地球こそが魅力的な遊び場なのかもしれません。

無重力エリア

そんな、地球の重力を感じる日々の生活の中で、無重力を感じられる時間というのは、やはり特別な味わいがあります。

生きていれば、どうしても感情というものは生まれます。

その都度、それに意識を向けるというのが、私のくせとも言えるほどに習慣になっているのですが、この「意識の向け方」をあれこれ試していたときに、いつもとちょっと違う体験をしたことがありました。

それを言葉で表現しようと思うと、ほんとうに難しいなあと思うのですが、「感情に寄り添う」の奥行きを知った、という感じでしょうか。

感情を、見つめる、見守る、眺める、共感する、同情する、理解を示す…、どれも違います。

余計なことは、なにもしない。
ただ、寄り添う。

感情に寄り添うことで、その感情は少しずつ落ち着いていき、消えます。

消えるというか、気がすむ、のだろうと思います。

あ、気がすむ=気が澄む、なのか。

「寄り添う」は「在り方」なので、これ、といった当てはまる言葉が見当たりません。

懐が深い、というのとも違います。

あるとき、その在り方に、懐が深い、という表現を当てはめるだけで、途端に小さくなってしまうように感じるほど、理解を超えた大きさを感じたのです。

もしかしたら、これを「愛」と呼ぶのだろうか。

一瞬、そんな考えがよぎるも、違う。 

ただ寄り添う、そう在るとき、他の全てからも、ただ寄り添われる。

一体感、安心感、なんと表現したら良いのかわからないのだけれど、そこは、ふわふわ無重力エリアでした。

自分の感情への接し方ひとつで、こんなにも体感に違いが出るのか、と衝撃を受けました。

とてもシンプルな在り方です。

だからこそ、難しいのかもしれません。

崇高な在り方、ってわけでもないのです。

全部大丈夫で、庶民的で、すぐそばにあって、でも、とてつもなく大きい。

そんな感じのものが、自分の内側にもあるし、外側にもあるし、なんなら全部それだから、全部大丈夫。

と、なんだかループしてますが、言葉で表現してみたらそんな感じの、ちょっとした体験をしたので、書いてみました。

まだまだ面白いことって、たくさんあるんだなあ。

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