高校2年、孤立無援の無謀な挑戦

こんにちは、鳥(@tri0142)です。
前回の記事では、高校入学から国立大学の受験を決めるまでの過程を説明しました。

今回の記事では、高校2年生の頃のエピソードについて執筆します。

1. 茨の道への突進

晴れて「C案」である予備校で補う方式を選択した僕は、まず春期講習を受講した。
周りの生徒の真面目な雰囲気から、ここは自分に向いていると実感した。
特に英語は、当時習っていなかった構文解釈を取る授業を行っており、予備校の大切さを実感した。
自習室もあり、静かな環境で思う存分勉強ができた。

その自習室で勉強していると、ある思いがこみ上げてきた。
独学の難しい理系科目を、果たして独学と予備校で補うことができるのだろうか。
それに加えて課題研究(大学のゼミのようなもの)も、独自科目もあるのに、受験勉強に集中できるのだろうか。
そんな状況で難関国立大学に現役で合格できるのだろうか。
親に負担をかけてしまわないだろうか。

そんなことを考えていると、とても不安になり、心臓の動悸が激しくなり、手が震え、冷や汗が出て、体温が上がるのを感じた。
そして改めて選択ミスを実感し、後悔した。

しかし、この点を克服する以外に進む道はなかった。
県内の偏差値45の高校から神戸大学に合格した人や、商業高校から東京大学に合格した人だっているのだ。
だから、自分にも決して不可能なはずがない。頑張り次第で可能性はあるんだ。
そう自分に言い聞かせて、勉強、それも特に理系科目の勉強を頑張ることにした。

そうして春休みは終わり、本格的にに通う日々が始まった。
予備校の授業では、学校と違ってハイレベルな授業と環境が展開され、このような環境で勉強ができることを喜んでいた。
しかし一方では、自分の境遇を思うと不安になり、勉強が思うように手につかなくなることもしばしばあった。
ただ、この段階ではまだ軽度であり、数十分もすれば不安は回復して、その反動でハイテンションになるという、双極性障害のような症状になることが多かった。
今思えば危険なサインであるが、当時はそれでも「通信制に転入する」という考えはなかった。

勉強するたびに境遇が自然と想起され不安になる日々が続いたが、それでもそのたびに頑張り次第で可能性はあるんだと自分を奮い立たせて、昼も夜もゆく日も来る日も勉強した。
平日は学校以外で1日4時間、土日は1日10時間ほど勉強していた。受験期でもないのに、そこまで熱中できるほどの意義があった。

ちなみに、その後訳あって大学受験を2回経験することになるのだが、2回目のときの平均勉強時間はこの半分にも満たなかった。
思い返せば就活の第一志望の企業対策よりも、高校の志望校の面接対策の方が何倍も熱心にやっていた。
これぞ「学習性無力感」の体現であろう。

当時は目立った挫折経験もなかったし、時代背景としても今より自己責任論が蔓延っていたから、弱音を吐いたり通信制に逃げるなど己のプライドが許さなかった。

2. 学習性無力感の萌芽

しかし、この頃すでに僕に学習性無力感の萌芽が芽生えていた。
それは、勉強しても勉強しても数学の偏差値が一向に伸びないことが原因であった。
学校で習わない範囲を勉強しているのだからある程度はしょうがないとしても、手応えはなく伸びる気配がなかった。
だが、それでもいつか偏差値は伸びると信じて勉強を続けた。

願いは叶い、まず6月の駿台模試で二次関数という一分野のみであるが偏差値51.2を記録。
8月の模試では、同じく数列という一分野であるものの偏差値55.7を記録。数学として過去最高の偏差値を叩き出した。

当時の模試の成績から分析すると、この頃には数学ⅠAはある程度の点が取れるようになっていた。
しかし、数学Ⅱは点が取れず、全滅した時もあった。

一方で英語の偏差値はまったく伸びなかった。
自分に合った勉強方法がわかっていなかったことも要因だが、単語や文法を覚えても偏差値が上がることはなかった。
覚えてもすぐ忘れてしまったり、模試の問題と傾向が違っている場合が多かった。

しかし、意外にも国語の現代文は偏差値が上がっていく。
それは、予備校の授業の受講のほか、夏休みに現代文に力を入れて勉強したことが要因と考えられる。
駿台模試において国語の偏差値が32.2と、極めて低い偏差値になってしまったことから危機感を抱き、時間があるうちに成績が伸びにくい現代文を勉強しようと思ったからだ。

結果、現代文の偏差値は急上昇し、評論に限れば京大志望者並みの偏差値にまで到達したこともある。
しかもこれは一度ではなく、二度あったし、模試以外でも現代文の伸びを実感したから、とても嬉しかった。

この頃にはだらだら勉強するのではなく、時間を区切って勉強することが定着した。効率も以前より高まったかのように思われた。

しかし、ここにきて事態は一変する。

11月半ばくらいから現代文の学力が急速に低下し、勉強する前の同じ水準になってしまった。
なぜだろうか。かなりの時間を要する、課題研究の発表の時期が近づき、強い不安感を感じたからである。

これは、2年生の終わり頃に課題に対する提言を一般の方が集まるコミュニティセンターでプレゼンする、クラスの一大イベントである。
むしろ高校生活では有意義なイベントのはずだが、なぜ不安になったのか。
それは主に先生の発言によるものであった。

「来年、君達もこうして発表するんだよ」
「発表が近づくと、いつも7時とか8時くらいまで残って資料作ってた。10時位まで残って作ってた人もいた」(それだけ大変だということだろう)
「2年生の何人か、部活来てない人いただろ?それは、資料作ってたからだよ。みんながんばってた」
「発表した2年生も、去年の今頃はその1個上(3年生)の発表を見て、自分もあんなふうに発表できるのだろうかと不安にしてました。君たちも、すばらしい発表ができるようがんばってください」
など。

通常の状況ならがんばろうという気持ちが芽生えたはずだし、先生の発言には生徒を奮い立たせる意図があっただろう。
しかし、国公立志望になって理数科目を独学で勉強しなければならない僕にはこれらの発言は全てマイナス効果であり、不安の源となった。
不安になるときは決まってこの課題研究のことを思い出した。その不安は、毎日のように訪れた。
課題研究がなくなってくれればどれほど嬉しいか、と思った。むしろお金を出すから課題研究がなくなってほしいとまで思った。

先生の発言に影響されたのはこれだけではない。

1年生の終わり頃、別の先生が進路の授業を行った。
そこで先生が「国公立を目指している人、挙手してください」と言った。
そこで僕は手を上げた。
すると、「うちのクラスは数学とかやらないけど、君はそのことわかってて入ってきたはずでしょ。だから、自分で独学するなりして。もしそれがきつかったら、推薦入試もある。実際、推薦でこのクラスから国立受かった人もいるから」と冷淡に言った。

身の毛がよだつような怒りと苛立ちを覚えた。
これがこの高校の現実か。何もサポートしてくれないのか、と。
実際、公募推薦を使えば数学なしでも国立大学に入学することができた。さらに、一般入試で数学が必要ない大学もあった。
しかし、当時の僕は推薦入試が存在せず、数学が必須の大学を志望していた。
それに、正直この時期から下位ランクの大学に志望校を変更したくなかった。

勿論、この発言も不安の源になった。

3. 無謀な理転

実は5月くらいから、都市工学や社会工学といった工学系の分野に進みたいと考えていた。
その理由は、まちづくりや道路が好きで、シムシティにも熱中していたことから、設計する側に回って好きを仕事にしたいと思ったためである。
しかし、数学や物理がネックとなって手を出せずにいた。それに、文系科目の方が明らかに偏差値が高かった。
しかし現代文の出来が悪くなったことで、国語全体の偏差値も下がり、数学に肉薄する状況になった。

理系の大学は文系の大学に比べると同じ大学でも偏差値が5ほど下がり、センター試験の得点率も3-7%下がる傾向がある。

大阪大学の事例を解説する。(数値は受験当時のもの)
経済学部のボーダー:84%、偏差値65.0
工学部のボーダー:80%、偏差値60.0

さらに、国語は偏差値が比較的上がりにくいが理科は比較的上げやすいという特性があるようだ。
思い返すと、中学生の頃は国語よりも理科のほうが得意で、一時期は英語より得意なほどだった。
就職においても、理系の方が専門職である分文系より有利な傾向があると考えた。(当時はリーマンショック直後で、景気が悪かった)
そのような状況だったから、転向するなら今しかないと思い、かねてから考えていた理系への転向を決定した。目標は大阪大学とした。

当然、数学と理科は独学するしかなかったが、中学時代には物理、化学ともある程度の点数がとれていたし、できると思った。
というか、不可能を可能に変えてやる!と並々ならぬ意気込みで頑張ることにした。

しかし、それには壁が立ちはだかっていた。
まず、他の科目の勉強があったために十分な勉強時間が確保できなかった
さらに、物理は数学と並んで独学が難しい科目であり、そのためペースがゆっくりにならざるを得なかった。
そのうえ、前述の不安もあったからモチベーション維持は容易なものではなかった。

1月になると、イベントに向けての資料作りが本格化する。
先生の言葉通り、7時近くまでかかることはよくあった。
これでも途中退席するなりしてなんとか予備校には行けていたのだが、予備校の授業がない日は自習室に行けなかった日もあった
だが、1年近くも前からこのことに対して「不安」「怒り」「いらだち」といった感情を覚え、そういった感情を毎日のように感じていると、だんだん感情が麻痺していくのを感じた
資料作りによるこのような事態に対し、最早いちだちを覚える気力すら失われていた。

これらの要因により、2月ごろになっても物理Ⅰが力学までしか進まない有様で、受験に間に合うかどうか危ぶまれた。

一方化学は高校で途中まで学習していたこともあり、比較的ハイペースで進めることができた。
数学も、この頃には無理やり数ⅡBを終わらせ、数Ⅲに入ろうとしていた。

震災の次の日も、いつものように自習室に向かっていた。
しかし、自習室に行くペースは以前より低下していた。
理転してから、自分なりに頑張ってきたつもりだったが、理転すること自体に無理があったためか、モチベーションの維持ができなくなってきて、勉強を休みがちになってきていたのだ。
さらに、この頃になると勉強の目的、勉強の意味も見失ってきていた
偏差値が上がらないことから、意欲が減退し、学習性無力感のような症状を呈していたのである。

しかし、ここでペースダウンしていてはこれから大変である。それに自分で確たる根拠をもって決めた選択なのだから、理系で頑張ることにした。
予備校で物理、化学、数学、英語を受講することにした。当然かなりの費用が必要になるが、親の承諾を頂くことができた。

次回は高校3年次について解説する。

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