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こだわりと偏狭と

たとえば、食品をくるむラップについて。ラップにはそれなりにこだわりがある。買うときは、基本「サランラップ」か「クレラップ」のいずれかと決めている。ことラップにかんする限り、ブランド志向なのだ。

もちろん、これまで百円ショップで売られているような廉価なものや業務用のものも試してはみた。しかし、そのどれもが異様なまでに切れにくい。切れにくいだけならまだしも、すぐさまクシャクシャになってしまい使いものにならない。散々無駄をしたように思う。

そんな自然淘汰の末に、とうとう「ブランド品」にしか手をが出さなくなった。結論はこうだ。たしかに値段は張るが、あのストレスと比べればけっして高いものではない。

同じような、つまり他人からみれば取るに足らないようなこだわりとして、「休日の朝はパン食」というのもある。なぜ休日の朝にパンを食べるのかといえば、パン食は「ぜいたく」だからである。

ぜいたくと言っても、とりたてて高価なパンを食べているわけではない。ふだん、温めた白飯に納豆をかけてかき込んで済ませているような人間にとって、休日のパン食はすこしだけ手間がかかるものである。時間に追われず手間をかけられるという、そのことがじつはなにより「ぜいたく」である。要するに、なにもパン食にかぎった話ではない。ゆっくり時間をかけた朝食がたまたま自分の場合はパン食だった、それだけの話だ。

室温に戻したバターを塗ったトーストに、フライドエッグかハムエッグ。ときには、シンプルなポテトグラタン。コーヒーはいつもよりたっぷり淹れる。こういうちょっとした手間暇がまずぜいたくだし、それが休日らしさを生むのだが、そう思うと、ふだんどれだけぞんざいに暮らしているのかという話でもある。

しかし、ラップにせよ、朝食にせよ、こう見てくると自分にだけ通用する「ぜいたくさ」をひとは「こだわり」と呼ぶのだということがわかる。それは他人からすればたいしたぜいたくとも映らないかもしれないが、端から他人と共有するつもりなど一ミリもないためいっこうに気にならない、そういう性質のものだ。共感されたい気持ちがないぶん、他人のこだわりにも一切興味がない。こだわりの基本は自家消費にあり、そこに他人への押しつけは存在しない。

いっぽう、こだわりに似ているが、自分のみでは完結せず他人に介入したくなるとしたら、それはこだわりではなく偏狭さと呼んだほうがいい。

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