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孤独とは濃淡である

166.孤独ということ

真夜中にしか聞かない音楽がある。それは、なにかの拍子に目が覚めてしまい眠れなくなったとき、悶々とした気持ちを慰めるために聴かれるようなたぐいの音楽だ。

昨夜は、けっきょく4回ほどもキース・ジャレットの『メロディー・アット・ナイト、ウィズ・ユー』を再生した。ジャズピアノの鬼才によるソロ作品。ここしばらく体調がよくないので、どうしても眠りが断続的なのだ。

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それにしても、どうやらこのアルバムでのキースは、ソロ演奏によるさらなる表現の可能性を探求しようとか、あるいは反対に、肩の力を抜いてジャズピアノの楽しさをリスナーに伝えようとか、そういった気持ちはさらさらないらしい。ひとことで言えば、誰かに向けて弾かれたものではないからだ。

では、誰に向かって弾いているのか。もちろん自分自身にである。ここでキースは、ほかならぬキース自身のためだけに弾いている。

とはいえ、心の赴くままにというよりは、ここでキースは、むしろ心が走り過ぎないことに細心の注意を払いつつ、おなじみのメロディーをまるで美酒をちびちび舐めるかのように演奏している。有名なリストのピアノ曲に「コンソレーション(慰め)」というのがあるが、まさにこれは交感神経を鎮めるための「慰め」の音楽だ。

それにしても、と僕はかんがえる。ここにあるのはなんて孤独な演奏なのだろう。

でも、それはけっして寂しいとか空疎なといった意味ではない。むしろ、この演奏を通じてキースが教えようとしているのは、孤とは「濃」であり独とは「充」であるという理(ことわ)りだ。

だってそうだろう。深く深く、こんなにも深く自分の内側へと沈潜してゆく営みが、寂しく虚ろであろうはずはないから。

ここに鳴っているのは、孤独を肯定する者が奏でるメロディーである。

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