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たい焼きと哲学的思考

245.「ふつう」

いつも行列のできているたい焼き屋で買い物をした。たい焼きを買うのはひさしぶりのことだ。

たい焼きふたつ下さい

そう言うつもりで列に並んでいたのだが、話はそうかんたんではなかった。どうやら、その店で売られているたい焼きは1種類ではないらしい。定番の「あんこ」以外にも中身の違ういろいろな種類のたい焼きがあるのだ。

幸い、順番が回ってくるまでまだ少し余裕がある。あわててレジに貼られたメニューを覗き見る。紫いも、チーズクリーム、パンプキン…… ほかにも数種類あった。

たしかにおいしそうなものもあるが、やはりたい焼きといえばあんこにきまっている。そう思い、迷わずふつうのあんこ入りを買った。だいたい、紫いもくらいならまだしも、チーズだとかパンプキンだとか邪道ではないか。

しかし、家に帰りたい焼きを袋から取り出しながらふと思った。

あ、たい焼きって、「鯛」の型で焼いているからたい焼きっていうのか。たしかに元々はあんこ入りだったかもしれない。が、だからといって他の具材を邪道と決めつけるのも正しくはないな、と。

そう考えると、なじみのあるものをいつのまにか「正しい」と思い込んでしまっていること、他にもまだまだありそうだ。そして、こうした思い込みを引き起こす呪いのことば、それは「ふつう」だ。

「ふつう、〇〇じゃない?」

日々の会話の中で、ほとんど意識することもなく使われるこの「ふつう」こそが曲者である。ほとんどの「ふつう」は、ただなじみがあるというだけでとりたてて根拠があるわけではないからだ。全然「ふつう」じゃない。

え? いや、ふつうに斬るでしょ、首。
首刈り族だったら、きっとそう言うにちがいない。いや、「ふつう」じゃないですから。

だから、うっかり「ふつう」と口から出そうになったらブレーキをかけなければならない。

哲学者のウィリアム・ジェイムズはこんなふうに言う。「哲学は、見なれたものを見しらぬもののようにあつかい、見しらぬものを見なれたもののようにあつかう」と。

ちょっと待てよ、そうつぶやいて立ち止まるこの作法こそが有効だ。それは、哲学のしぐさだ。

この世界は見しらぬものの総体であり、そこからちょっとずつ経験や知識によって切り分けて見なれたものにすることで「わたし」がつくられる。「わたし」の考えることのすべては「わたし」の世界のことでしかなく、だからみんなにとっての「ふつう」なんて存在しないのだ。

そのことを理解すると、どんなよいことがあるか? 
あんこ以外の具材でも、おいしくたい焼きをいただくことができる。

そう、哲学的な思考の実践は、ひとを生きやすくする手助けとなる。

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246.生々しさ

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