【映画】少年の君 少年的你/デレク・ツァン
タイトル:少年の君 少年的你 2019年
監督:デレク・ツァン
中国社会が示す市井の人々の生活
熾烈な学歴社会の狭間にある学校内で起きるいじめの問題。辺りを見渡せば、新しく建てられるビルの谷間に取り残された様に佇む、一見住んでいるのか分からない古い家やマンションの街並み。急速に発展する中国社会の中で生活する若者が抱える土地に縛られた閉塞感は、おそらくどの国の若者も抱えている感情ではありながらもより切迫感と強迫観念に縛られている。学歴社会が生み出す格差を埋めようと、経済的に豊かではない家庭は親が出稼ぎに出て子供の学費を稼ぐ。レールから脱落しまいと気負う姿を見ていると、日本の社会とは違った中国の現実を見せつけられる。主人公チェン・ニェンの母親が詐欺まがいなフェイスパックを売りつけている様は、日本の現代的な品質管理や倫理観の観点から考えればアウトな所ではあるけれど、背に腹は変えられない現状と稼がなければいけない現実を突きつけられる。母親の世代が抱えた問題を、とにかく金銭的な問題をクリアにして自分と同じ轍を踏ませまいとする立場の違いが如実に現れている。他人から忌み嫌われるイリーガルな場所から、真っ当な社会へ進出するリーガルな場所へ子供を歩ませたいとする世代交代の一場面は、この映画の一つの筋道を示していると感じられる。
しかし本作を観て感じたのは、感動や激動さを扇情するような展開が多い割に、どうも全ての展開が右から左へとするすると留まる事なく流れていく感覚があった。幾つか印象に残りそうな”魅せるべきシーン”はあるのに、それらの多くは脳裏に留まることなく流れてしまっている。
全体に感じる散漫さの要因
その理由のひとつは、カット数が多いせいで魅せるべき映像の余韻を感じさせる前に、細かいカットが入り次の場面に行ってしまっている事が原因だと感じた。この映画に限らずデジタル編集が可能になった時代以降は、当然のごとくカット数がやたらと多い映画が増え、余韻に浸る間もなく押し流す映画が多いのは致し方ないとは思う。映画の中で起きるあらゆる出来事に対して、じっくり場面を見せるという点がとにかく希薄になってしまっている印象がとにかく強い。説明的ではない演出が所々あるのだけれど、焦らす割にカット数が多いせいでどうにも慌ただしさの方が印象に残ってしまう。一番いただけなかったのが、タイトルが出る辺りのオープニングのエディットで、ひと昔、ふた昔前の日本映画の駄目な部分に近いダサさを感じてしまった。ちょっとこの表現はいなたい。それに輪をかける様に音楽の使い方が叙情的すぎてあまりにも感動を呼び起こそうと必死になっている感じがあった。エンドクレジット見るとArvo Pärtの曲を演奏したものが使われていたみたいだけど、気になったのはそれくらいだったかも。全体的にちょっとベタベタな感じが残念ではあった。昨今の中国映画、例えば「ロング・デイズ・ジャーニー」でのUSインディーにつながる冷ややかなサウンドや歌謡曲の使い方や、ダサさが反転してある種の説得力を持った「鵞鳥湖の夜」のボニーMの使い方(最高!)などに比べると前時代な感じは否めない。余談ではあるけれど、これらの作品ほどの映像的な驚きはほとんどなく、既視感の多い作品でもあった。チェン・ニェンが髪を切られるシーンは申し訳ないけど、ジュゼッペ・トルナトーレ監督の「マレーナ」ほどのインパクトは無い(粛清を食らっているのが誰かわからないくらいの衝撃がマレーナにはあった)。
もうひとつが、この作品自体がいじめ問題への啓蒙映画だった事。オープニングとエンドロールを見れば一目瞭然で、社会問題としてのいじめについての事象や現状が書かれていてそれが映画の主題となっていた。ここがこの映画の一番のポイントだと思っていて、いじめに加えてクライム要素を入れ込んではいるのだけれど、どうも全てが倫理観の中に収まってしまっている様にも感じられる。現実はもっと不条理な出来事が間にあるはずで、割り切れない部分が多々あるはずなのに、最終的に割り切れてしまってる感がある。つまる所、罪を犯した人は裁きを受けて更生するという道徳観が勝ってしまった印象が強い。啓蒙が主旨であれば全く問題はないかもしれないけれど、映画というメディアは社会が内包するその先の不条理も含んだ表現があることで、次の問題提起になり得るのではないか?と考えてしまうのは求めすぎなのだろうか。ある種の完結観がこれで終わりでいいの?という腑に落ちない部分であった。一つの問題を解決するためには、付属する問題をどうか帰結するのか、そしてそれが解決できずにいるのかまで描いて欲しかった。テーマに対して楽観的すぎやしないかと感じたのは僕だけだろうか。
とはいえ啓蒙映画として見れば、エンターテインメントとして振り切れているし、問題提起も申し分なく盛り込まれている。中国が抱える経済的な闇や、若者の即物的な考えから起こるアクシデントも遺憾なく表現されていると思う。この映画が描いた社会的な救いは咎めるべきではないと思うし、それがいじめや学歴社会が生み出す閉塞感のある社会で受け止められたという現実は意義があることだと思う。しかし、勧善懲悪な面も少なからずあるように思えて、人間関係の狭間で取りこぼしているものもあるように感じられた。穿ったものの見方かもしれないけれど、
学食でみんなペプシを飲んでいて「中国ではそんな感じなの?」と少し疑問に思っていたら、しっかりとエンドロールにスポンサーとしてクレジットされてた。ちょっと極端すぎないか?もしかすると本当に学食でペプシがスタンダードなのかもしれないけど、まあそれは無いよね。
俳優陣について
映画の出来は一旦置いといて、配役は素晴らしかったと思う。中心となったチェン・ニェン役のチョウ・ドンユイの無垢さは齢30近いのに高校生と言われても違和感のなさは凄い。実年齢に近いシャオベイ演じるイー・ヤンチェンシーよりも年若い雰囲気を醸し出す説得力は全く違和感が無い。「ロング・デイズ・ジャーニー」と「鵞鳥湖の夜」にも出ていた年嵩の刑事役ラオ・ヤンを演じたホァン・ジュエも安定した役柄だったと思う。そう考えると、配役が良かっただけにもう少し編集で魅せる作りができたのでは無いかなと思うと、もやもやとしたものが残る映画ではあった。
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