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【映画】デッド・マン・ウォーキング Dead man walking/ティム・ロビンス


タイトル:デッド・マン・ウォーキング Dead man walking 1995年
監督:ティム・ロビンス

贖罪と法がこの映画の根幹だと思う。さらに宗教が絡んでややこしくなる。先に言うと、法という民主主義の秩序と、贖罪の宗教観の不条理が描かれると思いきや宗教観へ収斂されてしまったのは酷く残念である。被害者と加害者の救いがこの映画のテーマであると思うのだけれど、思いの外宗教観へ帰結してしまっている危うさも強く感じる。正しい行いという尺度がキリスト教的な匙加減で語られすぎていて、死刑寸前のやり取りで興醒めしてしまった。
レイシストの死刑囚が最後の懺悔でレイブと殺人を告げるが、懺悔する事で魂が救われるという図式は、おそらく今の映画では絶対描かれない表現だと思う。勧善懲悪への気配りと言う、配給への忖度も感じられるが、どうにも不完全に受け取れる。今のインディペンデントな配給会社だったら、もう少し突っ込んで描くのだろうなと思わされる。
被害者の加害者の狭間で、キリスト教の価値観の魂の昇華はあまりにも一方的すぎる。死を準備すること社会的な制裁と、宗教の魂の浄化は矛盾を孕んでいるし、そこへの矛盾への逡巡が欠落している。盲目的な神への従順な様は軋轢を生み出しているし、聖書に忠実な姿は滑稽でしかない。
その矛盾をちゃんと照準に置いて、宗教も法の秩序の矛盾を突いていたら、時代を超えた名作の立ち位置に君臨したのではないかと思う。キリスト教的な視点が強すぎて、リベラルな無神論者の視点が欠落してるのが本作の弱みだろう。
正しさをキリスト教に依存しすぎているキライが本作の根底にある。しかし、一方でどの様な罪人でも人権は守られるべきという視点は重要だと思う。正しく裁かれるべき罪状が、一部の利権で絡め取られる実情は不条理でもある。罪を犯しながら巻き込まれた人間の冤罪の部分は、社会の関心の大小でしか語られない。SNSの台頭とともに、正義は極端な振れ幅しかなく、一旦悪と見なされれば絶対悪として存在感する。悪という存在は絶対的なものであって、正義の対岸に存在する。悪とレッテルを貼られた人にも日常はあるが、非人道的な場所に追いやられ、果てには死刑というエクストリームな場所へと追いやられる。
死刑制度が未だ残る日本において、この事は強く意識するべき事柄である。この映画が物語るのは、死に直面した人間も少ない時間の中で、贖罪からそれまでの見方を改める機会がある機会がある事を示している。
人間が人間を人命を削いで裁く事の危うさが露呈される。一体それが正しいのか?片方は裁きの上で処刑され、片方は終身刑で終える。宗教観と法の矛盾点がこの映画の肝であるはずなのに、キリスト教的観点で収斂してしまったのは残念でしかない。

劇中で流れる音楽を聴いてライ・クーダーっぽいなと思ったらギターで参加していて、聴いたまんまだなと思ってしまった。ヌスラット・ファテ・アリ・ファーンの歌声は、宗教観を超えたある種の安らぎを感じる。ライ・クーダーやエディ・ヴェダーばかりが取り沙汰されているが、ヌスラットの存在の宗教を超えた歌声は全てを超越している。


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