見出し画像

あやつり糸の世界/ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー

画像1

あやつり糸の世界
監督:ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー
前編105分 後編107分

・不条理ドラマとしてのSFの同時代性

1973年にテレビ用の映画として作られた一作で、SFミステリーというよりは不条理ドラマと言った方がしっくりくるような気がする。1960〜70年代に作られたイギリスの不条理ドラマ「プリズナーNo.6」や、ゴダールの「アルファヴィル」、トリュフォーの「華氏451」、タルコフスキーの「惑星ソラリス」、クリス・マルケル「ラ・ジュテ」、ニコラス・ローグ「地球に落ちてきた男」のようなヨーロッパのSF映画も未来観を見せるというよりは不条理ドラマの側面が強い。

画像14

ヨーロッパのSF映画は舞台やセットよりも小道具で演出するものが多く、アメリカの映画に比べると映画全体のSF感は希薄な印象がある。「惑星ソラリス」のように大掛かりな宇宙船のセットはあるが、森や霧というタルコフスキーの他の作品同様に扱われる景色の印象の方が強かったりもする。「あやつり糸の世界」も同様にコンピュータールーム以外は部分的にレトロな未来観はありながらも、ほとんどが73年当時の西ドイツの風景でしかない。ゴダールにしてもトリュフォー、マルケル、ローグ(華氏451の撮影監督)にしてもそもそもSF映画を専門とした作家ではないこともあり、人間関係の不条理さをあぶり出す事で独特なSF観を押し出している。
方やアメリカへ視点を移せば、SF映画の金字塔である「2001年宇宙の旅」のように舞台を100%宇宙空間に作り込み、HAL2000の暴走、スターゲイトなどヨーロッパの監督とは異なり世界観をセットから作り込んでいる。

画像8

後の1977年にルーカスによる「スターウォーズ」が登場する事でSFの在り方を変えただけでなく、「イージーライダー」から始まった殺伐とした内容のアメリカンニューシネマの息の根を止めた事でこれらの流れも大きく変わる。
しかしそれ以前のルーカスやコッポラが目指し参照していたのはトリュフォー、ゴダール、ベルイマンなどヨーロッパの映画監督であり、高齢化が進んだハリウッドのシステムからの脱却だった。(結果的に反体制側だったルーカスが「スターウォーズ」以降、保守側の体制へと変わってしまったのは皮肉なものだけれど…。)
コッポラと設立した初期アメリカンゾエトロープ時代のルーカス監督によるTHX-1138は、これまでに上げたヨーロッパの監督作品とアメリカの監督作品の中間にあるようなものになっていて、不条理や社会主義、監視/管理社会に蔓延る不穏な空気を描いていた。内容の暗さや扱いにくいテーマだったこともあり、興行的には失敗に終わりアメリカンゾエトロープも資金難から一時休業まで至って解散の憂き目にあう。

画像9

「2001年宇宙の旅」で類人猿が投げた骨が宇宙船へと切り替わるシーンで、宇宙に漂う世界各国の宇宙船がそれぞれ核爆弾を積んだものであるように、冷戦や東西、資本主義と社会主義への不安が根底に強く根付いていた時代だったのがこれらの作品から見て取れる。

画像10

「あやつり糸の世界」で描かれる記憶の不確かさや仮想現実は、パンフレットに書かれている通りウォシャウスキー兄弟による「マトリックス」シリーズや、クリストファー・ノーラン「インセプション」と言ったあたりの映画に先んじた内容だったと思う。というよりウォシャウスキー兄弟はこの映画を参考にした可能性は高い。(仮想現実だけでなくエラー修正という点でも)
「マトリックス」のベースになった押井守の「攻殻機動隊」や、リドリー・スコットの「ブレードランナー」での存在や記憶の曖昧さといったテーマにも通じるものがある。

・あやつり糸の世界

画像12

現代の派手なSFに慣れていると、地味な作品に映るが、注意深く見ていくとテーマの普遍性という点では今見ても中々面白い。
ストーリーの大枠は、シミュラクロン開発者フォルマーの死、その発見者で保安主任ラウゼの失踪のミステリー、ジスキンス所長と連合鉄鋼会社の癒着といった話が軸になりながらも、主人公シュティラーが抱える疑念はそこから少しずれていく。不自然な死や失踪、突如消える道、非現実的な現象の数々に遭遇する事で、現実の世界なのか判別が出来なくなってくる。側から見れば狂人に映る。

画像13

前編のラストでフリッツと入れ替わったアインシュタインがシュティラーの前に現れた時、ここは下の世界で、さらに上があると告げる。
だまし絵のような入れ子構造になっているが、シュティラーがいる上の世界とシミュラクロンの下の世界との関係は以下の通り。

画像2

しかし実際には、上の世界と思われていた世界は実際は下の世界でその上がある。シュティラーがシミュラクロンで見ていた世界は、実際には下の下の世界だったのがわかる。

画像3

さらに下の下の下や上の上の上にも世界がある事を劇中の台詞から匂わせている。

画像4

そしてその上下の関係をコーヒーの色の見え方で表現している。

画像5

下の世界に対して上の世界の人間は、神のように超然的に振る舞う。けれどもその上の世界が実際は下の世界だったとしたら、上の世界として神の采配を振るっていた人間も結局は釈迦の手の上という事になる。

画像10

シミュラクロンというシステムが導き出すのは「未来のあやまちを予見するもの」である。実の所ジスキンス所長が連合鉄鋼会社との談合でシミュラクロンを私的利用したというあやまちをあぶり出した事に他ならない。つまりジスキンスとホルムの行った下の世界のあやまちは、その上の世界が導き出した答えでしかない。現実と仮想世界の在り処を探すシュティラーに対して、癒着していたという答えしか持ち合わせていなかったジスキンスとホルムの返答から、彼らはシミュラクロンのシステムの一部でしかなかったのが分かる。シュティラーに対して、上司として振る舞うジスキンスも仮想空間の作られた人間でしかなかったという事である。

・ラストシーンについて

この映画が一番恐ろしいのはラストシーンで、銃殺されるとエヴァから予告(これもシミュラクロンのあやまちの予見)されたシュティラーが実際に銃殺される寸前に上の世界のシュティラーと入れ替えられ、見知らぬ部屋で目覚めるというもの。
一見ハッピーエンドに見えるラストで分かるのは、姿は瓜二つで性格の異なる上の世界と下の世界それぞれのシュティラーが存在する中で、エヴァが理想とする下の世界のシュティラーを上の世界のシュティラーと入れ替える事が目的であることだった。しかも入れ替えたシュティラーは銃殺されている。しかしラストでたどり着いた世界も下の世界かもしれず、エヴァの行動もシュミラクロンによるあやまちを予見したものである可能性もあるため、目の前にあるラストシーンもさらに先があるような錯覚を覚える。

画像14

あと、この映画でやたらと登場する鏡は、幾重にも重なっていくつもの世界があることと、それらの実態のなさを表しているように思える。

画像11

エンドタイトルで流れるフリートウッド・マックのアルバトロスも気怠さがあって雰囲気とあっていた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?