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音楽を知るという事

飲み屋で知り合った人と話をしていて、「〇〇が好きなんだよね」、「ああ、あれね」、「えっ!?なんで知ってるの?」という会話にちょくちょく出くわす。
会話から察するに10人中10人知っているような事柄/人物ではなく、周囲と話していても自分しか知らないことから、自分だけが知っているという感覚が生まれたことから発せられた言葉だった様に思う。この時〇〇に当てはまるのはとあるミュージシャンの名前だったのだけれど、そのミュージシャンを知ったのはラジオだったらしい。とはいってもそのミュージシャンは音楽雑誌にはよく出ていたし、SNSやネットメディアでも見かける名前だったので、日頃から音楽を漁っていれば”犬も歩けばなんとやら”くらいの知名度だったと思う。
世の中テレビに出ている人が世間一般の著名人だなというのは常日頃から感じている。「私だけが知っている」という感覚は他人事じゃないけれど、テレビのようなマスから外れた事柄/人物を好む時の、ある種のサガが端的に現れているのだなあと強く思った次第だった。

先日、認知バイアスについてのコラムをみかけて読んでみたのだけど、要約すると自分の好みはそもそも周囲から影響されているのでは?という内容だった(すみません、めちゃくちゃ端折ってます)。かつての流行歌はテレビやラジオを通したマスの影響から、嫌でも耳に入る状態が生み出したものだったかもしれない。耳馴れる事でその存在が「当たり前」のものとしてそこに存在する。時代をかたちどるものというのは、半ば強制的に耳に入る音や出来事が実生活と結びついてその瞬間をパッケージしつつ、時間が経った時に振り返ると「あの頃だな」という出来事と音が密接に絡まり合っているのだなと思う。ある種のノスタルジーは能動的でも受動的でも半ば強制的に生成されてしまうのではないかなんてことを考えたりする。

知るという事はそれが能動的であれ、受動的であれ、その人の中でかたち作られたものの輪郭が縁取られる事だと思う。どういった経路でも認知するという事は、周囲からの影響はゼロとは言えない。例えば全く知られていない音楽を誰よりも先に発見したいという欲を叶えるならば、バンドキャンプでアクセスの少ないものを当たれば当然誰よりも早くアクセスする事ができる。かたや話題になっているものを見聞きしてハマっていく事も誰しも経験する事だと思う。世に出ている事柄や人物を知るという事は、全くのゼロから触れるという事ではなく、誰かしらのフィルターを通して間接的に触れる事ではないかと思う。バンドキャンプで先物買いするのも結局はバンドキャンプというメディアを通している時点で、仲介者は存在している。そこに意思があるかは別として、全くのゼロではない事は確かではないかと。そういった考えが常に頭をよぎっている。

多くのものに触れるほど、自分の好みは分からなくなる。でもそこからひとつひとつ差し引いて残ったものが、自分にとって大切なものではないかと思う。メディアに触れた時、その時点で誰かのフィルターを通した世界が少なからずあるという事は肝に銘じたい。ただしそれを差し引いても自分にとって大切な事柄であるかという線引きは、個々にしか存在しない。知らない誰からの影響であっても、それが自分にとって影響があって自分を形作るものであればそれでいいのではないかと、そんなことを考える。

どの様な形であれメディアに乗ったものを好む時に、そういったジレンマを抱えている。そもそも自分が発信していれば別だけれど、発信されたものを受け取る時点でファナティックになっている事は、発信者との共闘関係であることは忘れてはならないと思う。外的要因に触れるという事は、数の大小に関わらずインフルエンスのもとにいるという事ではないかと投げかけたい。人は生きる上で、周囲から切り離された存在としてある事は出来ないのだから。

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